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・政局、政治 麻生の乱

【ポスト安倍と麻生の乱⑦】「加藤の乱」そして「宏池会」の終焉、無限拡散

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2017年07月06日 加藤の乱

「加藤の乱」勃発、そして「宏池会」の終わり

※以下、wikiから抜粋編集しています。

宏池会の派閥を継承し総裁候補としての実績を着々とあげつつあったのが加藤紘一と山崎拓の2人でした。

しかし、総裁候補の登竜門として1999年9月の自民党総裁選挙に出馬しましたが、事前予想通り現職総裁の小渕恵三に敗れます。

あくまでも、総裁選出馬は登竜門のつもりだった加藤・山崎に対し、無投票での再任を願っていた小渕は2人の総裁選出馬自体に激怒しました。また、加藤が小渕に政策論争を挑んだことも小渕の逆鱗に触れました。

温厚な人柄で通っていた小渕だが「あいつは俺を追い落とそうとした」と加藤・山崎派を徹底的に干していきます。

非主流が干されることは政争の常ですが小渕の対応は常軌を逸していました。小選挙区制導入により、官邸の権力が強くなっており、非主流派に追い込まれた加藤派と山崎派の立場は一層厳しいものとなったのです。

当時の加藤は改革派のイメージが強く、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していました。また党内第二派閥で保守本流の宏池会会長として総裁候補一番手と認識されていました。

 

非主流派で干され続け、活路が見出せない中、小渕首相が急死しました。

加藤と山崎に、気運がめぐってきました。

 

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小渕首相の急死と5人組による森内閣、別名「私生児内閣」誕生

(私は学生時代に羽田空港で森喜朗の実物を見ましたけど、風貌がもろ「その筋の人物」でした)

加藤は、学歴や、政界でのキャリア、第二派閥の長と言う自負から、次は当然自分だろうと楽観的に確信していましたが、いわゆる五人組、

五人組

・森喜朗幹事長(森派)

・青木幹雄内閣官房長官(小渕派)

・村上正邦参院議員会長(江藤・亀井派)

・野中広務幹事長代理(小渕派)

・亀井静香政調会長(江藤・亀井派)

による「密室非公開会議」で森総理が誕生します。これは、「私生児総理」と言われました。

加藤はまたしても、先送りにされます。

加藤紘一の凋落の始まり

先送りになった要因は加藤の器の小ささ、了見の狭さにあったといえるでしょう。

これは、加藤の宮沢内閣の竹下派(金丸)影響下の政権二重構造への反発があり、加藤は、小渕派(旧竹下派・田中派)に担がれる形での首相就任を拒んでいました。

加藤には理想の形というものをもちすぎ、さらには自分本位に楽観的な予想を立て期待して裏切られるというパターンがあり生涯繰り返しています。

結局、今度も、自身の理想とする首相形態を求めすぎた為、竹下派の疑念を招き就任が先送りにされました。

森との順番的に遅れをとった加藤の焦りが極まる一方、森内閣は、神の国発言、中川秀直官房長官のスキャンダルによる辞任などで、内閣支持率は低迷を続け、不人気がピークに達していました。再び、加藤と山崎にチャンスが巡ってきます。

 

低迷する森内閣の支持率、予想される参院選の惨敗

失言とスキャンダル続きで森内閣の国民の支持が低迷し、2001年参院選に突入すると自民党が惨敗することが予想されました。参議院過半数割れ(ねじれ国会)も懸念が続きます。

一時は執行部も加藤・山崎を主流派に取り込もうとし、森首相は前回人事での加藤派・山崎派の要望だった小里貞利の総務会長起用や保岡興治の閣僚入りを実現させます。

が、加藤は、森とは距離を置いていました。

一方、山崎は政界入り後から加藤の盟友であり、政権構想もあくまでも加藤との連携が大前提であり、先に加藤、次に山崎という考えであり、とことん加藤について行くつもりでした。

 

野党 森内閣不信任決議案提出へ

2000年(平成12年)11月20日の衆議院本会議に向けて、野党が森内閣不信任決議案を提出する動きを見せます。

それに呼応して、加藤紘一とその同志の国会議員が、賛成もしくは欠席すると宣言しました。加藤の盟友である山崎拓(近未来政治研究会会長)が山崎派として同調する構えを見せます。

 

加藤「森首相に内閣改造はやらせない」

11月9日夜、虎ノ門のホテルオークラ東京内日本料理屋「山里」での政治評論家(渡邉恒雄、早坂茂三、中村慶一郎、三宅久之、屋山太郎ら中曽根派に強い面子)たちとの会合で、内閣改造の話が出た際に倒閣を宣言します。

内閣不信任案に賛成票を入れるという宣言でもあります。

加藤の乱はじまりです。

中村が内閣官房参与であったため、加藤の倒閣宣言はすぐに中村から森首相に伝わりました。

 

加藤の戦略と加藤の乱

反乱を宣言した加藤はマスメディアやウェブサイトなどを通じて世論に訴える戦術を採り、広く公衆の関心を集めることに成功します。

世間の瞠目を集め、不信任案提出当日の夜は、特集番組を放送したニュース番組等は軒並み高視聴率を記録しました。

 

加藤は楽観的で、加藤派の一部の離脱するであろうことは予想していましたが、不信任案を通す人数までは切り崩されることはほとんど無いと高をくくっていたところがあったようです。

マスコミや世間では、不信任案否決に至っても加藤が自民党を離脱し民主党に与すると当然思ったが、加藤はいかなる結果になろうとも、自民党に残るつもりでした。

自民党を離党したあと、しぼんでいく新党、議員のありさまを考えると当然かもしれませんが、自分本位すぎる楽観的なこの見込みが甘かったといえます。内閣不信任案を出して「離党」する覚悟が無ければ政界と国民に気迫は伝わりません。

 

加藤「私の携帯には菅さんの電話番号が入ってます」

野党の菅直人や鳩山由紀夫との密接な関係をマスコミにアピールします。

加藤は、事前の情報戦や印象操作が、すべて竹下派に手の内を読まれてしまい、直後の「宏池会切り崩し工作」にあいました。

そして、「トモダチ仲間の」YKK=山咲拓・加藤紘一・小泉純一郎、最後のK、小泉純一郎の裏切りに会います。

 

小泉純一郎の裏切り

加藤は事前に小泉に相談しており、そのときの小泉の反応から支持は得たと楽観的に解釈した。が、小泉は簡単に裏切りました。

マスコミや野中ら党内実力者に「加藤が不信任案に賛成する」と積極的に情報を流したばかりではなく、政策的に対立してきた野中ら党内実力者と連携して、加藤派や山崎派、加藤に近い若手らを説得する役割に回り、不信任案への投票を阻みました。

★私は当時TVを見ながら、朝鮮人の小泉は必ず裏切るだろうと予想していたが不幸にもその通りになった。大事なプロジェクトや、大勝負に出るときは、メンバーに朝鮮人や部落民は絶対に入れないこと。必ず裏切り、寝返り、内通するから。

実際に因果はめくりめくでで、数年後小泉は、重要閣僚で優遇した麻生同和太郎にまんまと後ろから斬られることになる(笑)

 

野中広務の「宏池会」切り崩し作戦

橋本派の野中広務幹事長は当然、加藤の行動を批判して、切り崩しの先頭に立ちます。実質的に切り崩し側の総責任者的ポジションとなり、マスコミにも多々出演しました。

全てが決まる(切り崩し工作が頂点を極める)と言われた不信任提出前の土日の日曜日に北海道の会合に出席するという行動すらとりはじめました。(日曜の政治関連番組には中継で出演)

週末以前は「除名」の一本槍で非常に強気な姿勢を見せていたが、日曜のテレビ発言で条件的に含みを残す発言に変わります。

執拗な加藤への攻撃の理由として、かつて野中は加藤が経世会と距離を置くまでは加藤を総理にすると公言してはばからない時期がありました。

しかし、1999年の自民党総裁選で小渕の意向に反する形で加藤が立候補したことにより、(加藤と親しかったという理由で)官房長官をおろされるなど、とばっちりを受けたため、それ以降は反加藤となり、これを機会に、挽回するつもりもあったのでしょう。

 

宮澤喜一の加藤への「クーデター唆し」

加藤の乱を煽ったのは、宮沢喜一だったという説もあります。すくなくとも、加藤は、事前の食事会にて宮沢から「乱」にたいして了承もらったと受け取ったようですが、これも、宮沢が、はっきりとした言質を、加藤にあたえなかったため、加藤が都合よく解釈しただけだった可能性が高そうです。加藤は、加藤の乱のあと、宮沢への恨み節を隠そうとしませんでした。

★宮澤が加藤を唆し、事が起きたら裏切ったのは、政界入り以来、自分より、ライバルの大平と親しかった加藤に対する「隠微な恨み」が有ったことは間違いない。「部落民の天性の裏切り、犯罪性」をそう言った人種を知らない山形出身者の加藤が深読みできなかったのは、攻めることはできなく、気の毒だ。

 

民主党・自由党 不信任決議案を提出

自由党党首の小沢一郎は11月17日(金曜日)に不信任決議案を提出するよう民主党代表の鳩山由紀夫に主張。

これは週末議員が地元に戻り、後援者から不信任案への対応を考え直すよう説得される危険性が考えられるためでしたが、加藤が土日で逆に派内議員を説得すると主張し、鳩山は11月20日(月曜日)に提出しました。

が、小沢の懸念どおり、結果的に土日に切り崩され、加藤派所属衆議院議員の半数は加藤を見はなし、袂を分ちます。

★権力闘争になれた小沢一郎と、人を疑うことを知らず、詰めの甘い加藤。非常に対照的であり、小沢の言うように結果は見えていたと言える。

 

加藤の乱・執行部の切り崩し工作

※加藤の側近中の側近だった古賀誠

野中

「内閣不信任案が可決された場合、森内閣に解散総選挙を求める」

「2000年11月17日に、都道府県連に総選挙の準備を指示」

自民党執行部

「不信任案の採決に賛成したり欠席したりした議員は除名もしくは公認しない」

「違反者には、小選挙区支部長の「差し替え」、つまり対立候補の擁立も考える」

「加藤・山崎に除名届を内容証明郵便で郵送」

自民議員

・第一野党である民主党への合流という選択肢を事実上封じられた。

・違反者は自民党公認が得られない。

・二大政党による対決が中心となる小選挙区制では二大政党の候補とならないと当選するのは難しい。

これで、加藤の同調者の多くは動揺し、加藤は同調者を十分集められなくなります。

宮沢喜一、加藤の政権構想立案を担当した丹羽雄哉、加藤の側近中の側近と言われた古賀誠が離反したことで形勢は一気に決まりました。

加藤のクーデターは失敗に終わった

★クーデター(社内の権力抗争)は、私も会社員時代に参加したり作戦を立てたりしたことは有るが、「事前準備の秘匿性」と「戦機」を逃さないこと、この二つが完璧でないと失敗し、逆に返り討ちに会う。

「政界の狙撃手」と言われた、野中広務氏の方が数段上だったわけだ。後に、この「公認権」を使って、反対派を寝返らせる手法は、小泉ちょん一郎が真似して、2005年の「郵政解散」で真似している。

 

加藤は説得を受け入れ欠席戦術

午後9時30分よりホテルオークラ東京

加藤は、腹心でもある小里貞利総務会長の説得を受け入れ欠席戦術に切り替えました。

これを加藤は涙ながらに「名誉ある撤退」と呼びました。

谷垣涙の制止「大将なんだから」加藤派の議員が切り崩された中で敗北を確信した加藤、山崎が両派合同総会を開き、その後の対応を協議する場面の一部がそのままテレビで放映されて、その様子が全国報道されました。

途中、加藤・山崎の2人が単独で議場で不信任票を投じに行くと発言し、一転させます。

派閥領袖の単独での不信任投票は自分が起こした倒閣運動には党除名になっても一議員として最終的な責任を全うする一方で、非主流派として冷遇されるまで加藤・山崎に従った議員には党除名という辛酸に合わせないための配慮とされました。

加藤の乱は失敗に終わった

しかし、宣言して本会議場に向かおうとする加藤の肩を加藤派の谷垣禎一がつかみ

「加藤先生は大将なんだから! 独りで突撃なんてダメですよ! 加藤先生が動く時は俺たちだってついていくんだから!」

と懸命に慰留した。また、同じ加藤派の杉山憲夫も加藤の側で谷垣の発言に頷きながら

「死ぬも生きるも一緒だ」と慰留に努めます。

★当時TVで見ていました。

同情し、悲壮感は直に伝わってきましたが、子分は泣いても、大将が泣いてはだめですね。政界では「泣く人は総理になれない」と言うジンクスが有ります。

直近の記憶では、民主党政権、菅内閣の海江田万里と、故加藤紘一です。

鎮圧された後の宏池会の分裂

この政局の結果、加藤派・宏池会は以下の様に分裂しました。

①加藤と行動をともにしたグループ(加藤派)

加藤、小里のほかに原田昇左右、森田一、谷垣禎一、川崎二郎、逢沢一郎、園田博之ら。

 

②反対したグループ(堀内派)

宮澤喜一(前派閥会長)

鈴木善幸(前々派閥会長、1990年の衆議院選挙で政界を引退していたが反対を表明)

池田行彦(宏池会創世の池田勇人の娘婿)

丹羽雄哉(加藤の政権構想執筆者)

堀内光雄(山梨県富士急ハイランドのオーナー社長。息子は慶應の経済で私の同期、孫は三流女性誌に佳子様の交際相手と書かれたが勿論「嘘記事」だった)

古賀誠(加藤の側近中の側近)

加藤の側近中の側近だった加藤の裏切り、この人も「修羅の国・福岡選出議員で部落民だから、ごく自然に裏切ったのでしょう。

太田誠一

昔有名な事件「早稲田大学のスーパーフリー事件」で「若いんだから強姦できるぐらいが元気がいい」と発言し、バッシングを受けた。期待を裏切らず、福岡県選出で「在日朝鮮人」。

 

宏池会の源流的存在の宮澤・鈴木・池田らが反対にまわり、加藤の有力側近まで反対に周りベテランは追従し、宏池会の大勢は反対が決定的となりました。

①②の両グループは2008年に合流するまで双方が宏池会を名乗る異常事態でした。

 

③その後の加藤派
当時、世論の森政権・自民党への支持が極端に低かったことから、加藤への期待感がとても大きかったにも関わらず、離党は拒否し、投票も棄権したことにより逆に加藤への失望感や批判が渦巻きました。

加藤派の人数が大幅に減少し第2派閥から第6派閥に転落したこと、内閣改造と党役員改選によって加藤派の小里貞利が総務会長を離任し、森田一や吉川芳男が閣僚離任したことによって、加藤の党内影響力が大幅に低下しました。

加藤派の後継である小里派の最高顧問に就任したが、加藤及び小里派の政界影響力には既に限界がありました。

この様なことから、小里派も派の看板を将来の総裁候補と呼ばれていた谷垣に切り替えます。

谷垣は小派閥出身者ながらも小泉内閣で財務相に就任しポスト小泉の一人として認知されるようになりました。

★2008年に、古賀派と加藤の後継者の谷垣グループが合併し「中宏池会」ができたが、加藤の弟子谷垣は裏切りの先方となった古賀に対する怨念が消えず2012年の総裁選で再度分裂した。

よって今は、正統な「宏池会」は存在しない。

続きます。

 

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