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【インドネシア大統領】ジョコ・ウィドド、反日以前に信用できない男

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みなさんこんにちは。今回はインドネシア大統領を取り上げます。

インドネシア 1万3千の島々からなるイスラム系の多民族国家

今や、インドに次ぐアジアの経済大国になろうとしているインドネシア。

世界最多の島嶼を抱える国家であり、赤道にまたがる1万3,466もの大小の島により構成されている多民族国家でもあります。

また世界最大のムスリム人口を有する国家にして、人口は世界第4位で。2億3,000万人を超えます。

 

インドネシアの民族 画像はwikiより

 

アセアンの盟主であり、アセアンの本部はジャカルタにあります。

日本との縁も深く、大東亜戦争で、オランダ植民地軍を日本軍が駆逐、有名なスカルノ(デヴィ夫人の亡夫)やハッタを指導者にして独立の道を開いたのも、我が日本でした。

 

しかし、2014年にとんでもない男が第7代大統領に就任したものです。

東南アジア諸国の元首は、日頃の言動が、その国の研究者以外は、我々の耳に入りにくく、対日関係が良好なほど、元首たちのキャラクターは「透明な存在」となります。フィリピンのドゥトルテの様に、「暴言」を吐きまくれば有名人になりますが。

ウィドドは昨年、ジャカルターバンドン間の高速鉄道受注で、日本と中国を最後まで競わせ、日本に建設の調査をやらせ、その資料を中国に渡して、中国に逆転受注させた「ワル」です。

私は、その時「まるで朝鮮人みたいな汚い手を使う男だな~」と腹が立ちました。

調査費用は日本に出させてこの裏切り。当然、日本側の官民は激怒し、両国間に摩擦が生じました。

日本が東南アジアの「発展途上国」にこのような「詐欺的裏切り」を受けたのは、この男が初めてです。

 

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インドネシアの歴史 wikiより抜粋編集

先史時代

様々な出土品から石器時代と金属器時代の2つに大きく分けることができる。

 

石器時代

人類が使用するいろいろの道具を石器で作っていた時代。

なお当時は、石器のみではなく、竹や木からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の4つに分けることができる。

 

王国時代

紀元前1世紀頃

来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れはじめる。

5世紀頃

王国を建国がはじまる。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。

12世紀以降

ムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。

 

オランダ統治開始

16世紀

香辛料貿易の利を求めてポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航。

17世紀

バタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。

オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争(英語版)によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。

1799年

オランダ東インド会社が解散。

1800年

ポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。

1795年にフランス革命軍に占領されオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は滅亡し。

1795年ー1806年

バタヴィア共和国

1806年ー1810年

ホラント王国と、政体を変遷した。

1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国までインドネシアは、英国領であった。

1819年

イギリスのトーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発。

1824年

イギリス・オランダ両国が英蘭協約を締結。オランダ領東インドの領域が確定した。

 

独立運動

20世紀初頭
オランダによる過酷な植民地支配下で、東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。

1908年5月20日

ジャワ島では、ブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。

設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。

1910年代

イスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功。

1920年代

インドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。

1927年

スカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」によって、民族主義運動が最高潮を迎える。

インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、「青年の誓い」では唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。

1927年末から1928年

インドネシア共産党は反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。

スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代をむかえることになった。

 

日本軍政

1941年2月

日本は東南アジア地域の占領地の軍政を研究し始めた。

1941年12月8日午前2時15分(真珠湾攻撃の約1時間前)

日本軍はマレー半島コタバルに上陸し太平洋戦争が開戦。緒戦は日本軍の圧勝。

1942年1月11日

今村均陸軍中将を司令官とする、日本陸軍第16軍の隷下部隊がタラカン島へ上陸し蘭印作戦(H作戦)を開始。

2月14日

スマトラ島パレンバンに日本陸軍空挺部隊が降下し同地の油田地帯・製油所・飛行場を制圧、上述の「重要国防資源」たる南方大油田を掌握し太平洋戦争の開戦目的を達成した。

3月1日

ジャワ島に上陸、同月9 - 10日には蘭印の中枢であるバタビア(現:ジャカルタ)を占領し作戦は終了した。

インドネシアにおける日本の軍政

・ジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲。

・州長官に日本人を配置。

・オランダ時代の王侯領には自治を認め、ジャカルタは特別市として州なみの扱いとした。

・軍政の実務は日本人の行政官が担い、州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した。

・同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した。

・オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立て実施された。

1943年中盤以降

アジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足した。

このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。

1944年9月3日

インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、将来の独立を認容する「小磯声明」を発表。

1945年3月

東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。

同年8月7日

スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。

 

独立戦争

1945年8月15日

日本がオランダを含む連合国軍に降伏

同年8月17日

念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で独立を宣言した

(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)。

これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間に独立戦争が勃発。

戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。

独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部が提供した武器や弾薬で武装化した。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達し農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。

 

また、この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立って戦い、その結果1,000人が命を落とした。

1947年8月1日

独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。

最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。

 

独立承認

1949年12月

オランダ-インドネシア円卓会議(英語版)(通称、ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認を得ることに成功。

オランダ統治時代の資産を継承した。これによって、国際法上正式に独立が承認された。

しかし、この資産には60億ギルダーという膨大な対外債務(うちオランダ向け債務20億ギルダーについては、オランダが債務免除に同意した)も含まれており、財政的な苦境に立たされることとなる。

その解決のために円卓会議の取り決めを一方的に破棄、外国資産の強制収容を行うなど強攻策をとり、さらには国連から脱退するなどスカルノ政権崩壊まで国際的な孤立を深めていくこととなる。

現在でも8月17日を独立記念日としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。

 

スカルノ時代

インドネシア初代大統領スカルノが、オランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた。

1955年

初の議会総選挙を実施、

1956年3月20日、

第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立。

国民党、マシュミ、NU の3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、共産党は入閣していない。

この内閣は5カ年計画を立てた。

・西イリアン帰属闘争

・地方自治体設置、

・地方国民議会議員選挙実施

・働者に対する労働環境改善、

・国家予算の収支バランスの調整、

・植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ること。

しかし、民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様で、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。

1950年代後半

地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生。国家の分裂の危機に直面した。

1959年7月5日 「指導される民主主義」体制の発足

スカルノ大統領は、大統領布告によって1950年憲法を停止。大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言。

ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。

この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。

ついに、スカルノは全土に対し、戒厳令を出した。

スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍との反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。

この時期、盛んにスカルノが喧伝した「ナサコム(NASAKOM)」は、「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。

1961年12月

オランダ植民地のイリアンジャヤに「西イリアン解放作戦」を決行して占領。

1963年5月

インドネシアに併合されると、反政府勢力によるパプア紛争(1963年–現在)が勃発。

スカルノの「指導される民主主義」は、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。

国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた

(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。

 

スハルト時代

1968年3月 新体制 (Orde Baru)

正式に大統領に就任。

スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復しながらも、国家運営とグランドデザインはスカルノを継承し、以後30年に及ぶ長期政権を担った。

その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、インフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済発展を達成することに成功した。

その一方で、東ティモール、アチェ、イリアンジャヤなどの独立運動に対しては厳しい弾圧を加えた。

1997年

アジア通貨危機に端を発するインドネシア経済崩壊

1998年5月

ジャカルタ暴動(英語版)が勃発し、スハルト政権は崩壊した。

 

スハルト以後

ハビビ政権

スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任。民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。

スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党以外の政党の結成も自由化された。

1999年6月

総選挙が実施され、民主化の時代を迎えた。

 

ワヒド政権

1999年10月、

最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、アブドゥルラフマン・ワヒド(国民覚醒党)が新大統領(第4代)に就任。

メガワティ・スカルノプトリは副大統領に選ばれた。

2001年7月

ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。

 

メガワティ政権

ワヒド政権に代わって、闘争民主党のメガワティ政権が発足。

 

ユドヨノ政権

2004年4月

第6代スシロ・バンバン・ユドヨノが同国初の直接選挙で選ばれた。

2009年~2014年

60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にあった。

 

ウィドド政権

ジョコ・ウィドド 現・大統領
2014年7月の選挙で当選した闘争民主党のジョコ・ウィドドが第7代大統領に就任。

この大統領の「仁徳」については、冒頭で取り上げたとおりです。

それでは、現大統領のウィドド大統領の命式を見てみましょう。

四柱推命鑑定 命式ジョコ・ウィドド

1961年6月21日生まれ(55歳)

上 中 下  宿命星  十二運  吉凶星

年柱 辛 未 己 偏官 偏財 養  血刃

月柱 甲 子 癸 劫財 偏印 病  天乙貴人 咸池(2個)

日柱 乙 卯 乙    比肩 建禄 血刃

時柱 丙 辰 戊 傷官 正財 冠帯 羊刃 華蓋 寡宿

 

【特記事項】子丑空亡なので、月柱が空亡している。

 

【総合鑑定】≪吉星が1個もなく、人望の無い男、大運空亡中なので任期を全うできない≫

月柱が空亡しているので天乙貴人が死にました。よって吉凶星には凶星しか残りません。

公私混同して、恥を世間に晒し、東京都知事を辞めさせられた舛添要一と同じです。

「人徳」がなく、部下から嫌われているでしょう。

月柱の空亡は、「生家から援助を受けにくい暗示」ですが、ウィドドは実家が「大工」ですから、富裕層の家庭とは言えません。

その意味では当たっているでしょう。

血刃が2個もあります。怪我や病気に縁が有るでしょう。不吉の星の羊刃が有ります。

宿命星を見ても、偏官、劫財、偏印、傷官などの凶星のオンパレードで、話になりません。

 

彼の二十八宿は角宿です。

視野の狭い職人肌です。安倍総理は張宿ですから破壊縁で、総理がウィドドを破壊する側で、相性は最悪です。

 

大運を見てみましょう。

55歳~65歳 戊子―正財―病―大運空亡・・・戊子の子が空亡なので現在大運空亡中です。

 

2016年 丙申―傷官・・・けじめをつけられる厳しい年でした。

自ら対日関係を悪化させたウィドドは、今年、閣僚を率いて来日し日本―インドネシア閣僚会議を開催し、昨年、裏切った代償として、今度は、ジャカルタースラバヤ間の高速鉄道の受注を持ちかけ、おまけに「優先権」と言う餌を持参しました。この結末はまだわかりませんが、インドネシア側は日本政府から、「良い感触」は得られなかったようです。

まさにけじめの一年となりました。

以上

 

 

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