フィリピン大統領|ドゥテルテ

フィリピン大統領|ロドリゴ・ドゥテルテ

強面大統領、暗殺に注意

皆さんこんにちは。今回はフィリピンのドゥテルテ大統領を取り上げます。

2016年の6月に就任した大統領ですが、その強烈な「キャラ」でもって、アジアやアメリカでは有名人になっています。

「有名人」になった理由は、麻薬撲滅のために、大統領黙認の下、「ダバオ・デス・スクワッド」と呼ばれる「自警団」が、犯罪者を「超法規的に」私刑で殺害しているからです。

日本の死刑制度を非難する国が多いのですが、フィリピンやフランスは確かに死刑は廃止されていますが、これらの国は、弁護士を付けて裁判にかける以前に、拘束するまでもなく現場で「犯人」を射殺する権利があります。どちらが野蛮なんでしょうか。

★「超法規的に」と言う意味は「何人も裁判を受ける権利が有る」と言う「基本的人権」を無視しているからです。

要するに「自警団」なるものが、麻薬犯を拉致しては、警察に引き渡したり、裁判を受けさせたりせずに、その場で、殺害しています。

★当然ながら、世界の「人権団体」から猛烈に批判され、タイム誌は、彼のことを「処刑人」と呼びました。

アメリカのオバマ大統領から、非難されると、彼は、オバマのことを「売春婦の子」と発言して、米比首脳会談は中止、外交問題に発展しました。

★アメリカに盾つくなんて、この人「怖いもの知らず」なんですね。

野蛮極まりない人物と思いきや、家庭環境や経歴は意外に保守的です。

彼の育った家庭環境は、父親が法律家、母親が教師の「知識層」の家庭です。

そして、彼自身も、法科大学院を卒業して、検事まで務めています。

「法律のプロ」が、「基本的人権」を無視した、「治安政策」をするとは驚きです。

★要するに、彼が「無知」なのではなく、「確信犯」で、麻薬犯罪人の「超法規的殺害」は、「フィリピン麻薬戦争」と呼ばれる、「治安に対する脅威」に対して、彼なりの考えが有るのでしょう。

★しかし、「切れやすい性格」らしく、法科大学院時代に、「少数民族出身」であることをからかった同級生を銃撃するという事件を起こしています。

★大学時代の恩師が「フィリピン共産党」の創始者であり、中国人の血が家系に流れているために、自然と「共産中国」にシンパシーを感じるのでしょう。

また、長年、フィリピン政権を悩ませてきた、ミンダナオ島の「共産ゲリラ」とも停戦合意しました。

これは、一つの実績でしょう。

★「親中反米」です。フィリピン国内の「米軍基地」についても「出ていくべきだ」などと発言しています。

★「日米、韓米安全保障条約」を基礎とした、「アジア、太平洋の安全保障」にとっては、とっても「困ったチャン」です。

 

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フィリピン共和国

 

フィリピン共和国

島国であり、東南アジアに位置する共和制国家。首都はマニラで、最大の都市はケソンである。国名のフィリピンは16世紀のスペイン皇太子フェリペからちなんでいる。

 

先史時代

フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。

フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。

次に新石器文化を持った原始マレー。

この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。

 

古代

紀元前500年~紀元13世紀の間

マレー系民族が移住してきた。

 

900年頃

日付が記録されているラグナ銅版碑文(英語版)などによれば、900年当時すでにカウィ文字(英語版)やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。

 

イスラームの流入

14世紀後半にイスラム教が広まった。

中国(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7,000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。

 

欧州の侵略開始 そしてレジスタンスの始まり

スペイン植民地支配に抗したフィリピンの国民的英雄、ホセ・リサール

西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊が太平洋を横断しメキシコから到来した。

 

1521年 欧州人が到着

セブ島にポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達。

マガリャンイスはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。

 

1494年

スペインとポルトガルが結んだトルデシーリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とした。

 

1529年 

サラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。

 

1565年  スペイン支配の開始

スペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まる。

 

1571年 マニラが植民地首符に

マニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。

これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。

 

1762年 マニアらが英国に占領

一時的にマニラがイギリス軍に占領された。

 

1763年 再びスペインの管轄下に

パリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。

 

18世紀 南下するスペイン

スペインは南部への侵攻を開始したが、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。

 

スペイン統治下

メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。

フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。

 

カトリック化が進む

ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の一つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。

 

大地主と労働者の社会へ

スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。

 

スペイに対する反抗

支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。

 

19世紀末 独立運動が盛んに

フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍により独立運動が本格的になった。

リサールは、1896年12月30日に銃殺された。

 

1898年 アメリカからの支援

米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。

 

1899年6月12日 独立、共和国に

初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。

フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。

 

第一共和国とアメリカ合衆国植民地時代

1899年2月から1902年7月 フィリピン・アメリカ戦争期とする

1898年

パリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。

 

1899年1月21日

フィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。

5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。

フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。

 

1901年

アギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。

 

1903年

サンボアンガ共和国も崩壊。モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。

 

1916年

フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会はジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立。

 

1920年代

RCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。

 

1929年

世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった。

 

1934年

アメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた。

 

第二次世界大戦と独立

1941年12月

アメリカ合衆国軍との間に開戦した日本軍が、アメリカ合衆国軍を放逐しマニラ市に上陸。

アメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退。

 

1942年の上半期

大日本帝国陸軍がフィリピン全土を占領した。

 

1943年5月

アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、大日本帝国も1943年5月に御前会議でフィリピンとビルマを独立させた。

 

1943年10月14日、

ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。

しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった。

その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。

 

1944年12月8日

日本の敗戦が濃厚になると1944年12月8日に親日義勇隊のマカピリが設立されベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった。

また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。

 

1944年末

米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。

第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊された。

 

再独立
1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなった。

 

1946年

マニラ条約(英語版)で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国(英語版)が再独立した。

 

冷戦時代

地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いた。

1950年代中

共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。

その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった。

 

マルコス独裁

1965年

反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家(英語版)体制を築いた。

アメリカ合衆国からの支持を得たマルコス政権は、20年に渡る開発独裁政権となり、イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され腐敗した政権に対して、中華人民共和国やソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍 (NPA) による武装蜂起が発生した。

 

エドゥサ革命

1986年2月22日

民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立。

マルコスとイメルダはアメリカ合衆国のハワイ州に亡命した。

 

イスラム派によるフィリピン紛争

①フィリピンの共産主義勢 力フクバラハップ

第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。

 

②毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)

新人民軍 (NPA New Peoples Army) を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。

NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年現在、武力行使は継続中である。

 

⓷モロ民族解放戦線 (MNLF)

ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としている。

1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。

1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結。フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、現在はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。

2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突。

 

④モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front)

モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年MNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。

1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結。

2000年 エストラーダ政権により破棄。

2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結。

2005年 MILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。

2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る。

 

アブ・サヤフ・グループ (Abu Sayyaf Group)

1990年 フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島、および、インドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、フィリピン政府に対して武装闘争を開始。

アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返した。

2000年以後 活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2013年現在、武力闘争を継続中である。

 

格差社会・発展途上国としてのフィリピン

・フィリピンの2013年のGDPは2,720億ドル。一人当たりのGDPは2,790ドルであり、世界平均のおよそ25%ほど。(IMF)

・1日2米ドル未満で暮らす貧困層は3842万人(フィリピン国民の40%以上)

・国民の半数以上が1家族あたり毎月1万ペソで暮らす「分厚い貧困層」がいる(2011年アジア開発銀行)

・植民地時代・独裁時代に一部の特権階層が経済を独占してきたアシエンダ制(大農園)の影響が残っており、財閥による寡占状態にある。

 

フィリピン財閥

①サンミゲル社 サンミゲル醸造所を傘下に収める、

②アヤラ財閥 不動産開発で成功

⓷アラネタ財閥 砂糖プランテーションから不動産開発に多角化

④オルティガス財閥 Ortigas Centerを所有するオルティガス財閥

➄ツアソン財閥 ミンダナオのバナナプランテーションや銃器メーカー

⑥コファンコ財閥 コラソン・アキノの父が興したホセ・コファンコ・アンド・サンズ社を擁す、

⑦ユーチェンコ財閥  Alfonso Yucengco率いる(Yuchengco Group)、

⑧ゴコンウェイ財閥 John Gokongwei率いるコーヒー会社や食品会社Universal Robina、

⓽シューマート財閥 SMプライムホールディングス(英語版)を擁す

➉マリアノ・ケ  率いるMercury Drug

など

 

・フィリピンの経済は(2014年)東南アジアの中でも貧しい方であり、万年出遅れ組と呼ばれることもある。

・2005年以降はリーマンショックのあおりを受けた2009年を除いて4%~7%前後の安定した経済成長している。

・特に2010年には7.6%、2013年にも7.2%と7%を超える高い経済成長率を記録した.

・80年代から90年代前半の政治的な要因により低迷した時期と比べると大きく回復している。

 

1997年 アジア通貨危機

アジア通貨危機が発生すると、そのあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、財政破綻したタイ、一時期国家崩壊の危機に陥ったインドネシア、国家破綻しかけた韓国などに比べると回復は早く、IMFの管理下になることを免れた。

 

海外への出稼ぎによって支えられる経済

フィリピンの経常収支は1000万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられており、出稼ぎ、特に看護師はフィリピンの有力な産業と言ってもよい。

外貨投資額より出稼ぎ海外送金の総額は、外資の直接投資額を上回り、貴重な外貨をもたらしている

 

高度経済成長中

東南アジアではベトナム・インドネシアと共にNEXT11の一角にも数えられており、今後も経済発展が期待できる新興国の一つに含まれている。

南部武装ムスリム勢力に対しては、MILF・モロ・イスラム解放戦線との和解交渉が成立するなどの進展が見られた。

ミンダナオ島にも、アメリカなどからの直接投資も入り始めている。

 

フィリピンとアメリカ軍

第二次世界大戦後の冷戦期間中のフィリピンは、同じく西側諸国に属すこととなった日本と同様に、極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点となり、米軍に基地を提供していたがが、

・1990年初頭の冷戦の終了

・ピナトゥボ山の噴火

・フィリピン国内のナショナリズムの応用

・フィリピン共和国憲法改正

により、在比米軍は軍備を沖縄に集約し、フィリピンから撤退。

その後、抑止力がなくなった隙をついて中国が南沙諸島に侵入。領有権を主張。

美しい海や温暖な気候、明るい陽気な国民性とは別に、フィリピンの歴史は、圧倒的な富める一握りの家族と、搾取され放置される圧倒的多数の貧者の構成が続いています。容赦のない弱肉強食に基づいた格差社会であり、それゆえに、侵略者とフィリピン人との血みどろのレジスタンスの歴史といっていいでしょう。国教であるカトリック信仰も常識も道徳も法も国民を守ってくれず機能していません。

アジアにありながら、中世の荘園そのものの南米型社会のフィリピン。

まるで、世紀末救世主伝説のような社会に、圧倒的な支持を得て君臨し統治しているのが、ドゥテルテです。

 

別名ザ・パニッシャー(仕置き人)ドゥテルテの麻薬組織との戦い

http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/15/duterte-brutal-drug-war_n_12035956.html

フィリピンの警察と自警団はフィリピン国内でここ数カ月のあいだに2000人以上を射殺した。

新大統領ロドリゴ・ドゥテルテの容赦ない麻薬撲滅戦争は日に日にエスカレートしている。麻薬の売人や使用の疑いをかけられた人が殺害され、血まみれの遺体は路上に放置され、街を恐怖のどん底に陥れている。

射殺事件が急増したのは、ドゥテルテ大統領が過激な手法で国内の麻薬取引を撲滅するという選挙公約を実行に移したためだ。

その公約を掲げ、ドゥテルテ氏は5月の大統領選挙で圧勝した。

2010年以降、犯罪件数が2倍以上になったと報告されているフィリピンでは、多くの有権者がドゥテルテ氏独特のの安易なポピュリズム、そして厳しい制裁で国内の社会的、政治的問題が手っ取り早く解決すると評価した。

しかし複数の人権団体は数年前から、ドゥテルテ氏が前職のダバオ市長時代に自警団「デス・スクワッド」を支持していたとして彼を非難し、極めてひどい人権無視に反対している。ドゥテルテ氏が選挙での公約を実行に移し、暴力的な取り締まりが始まるという批評家の懸念は正しかったようだ。

自警団と警察は、基本的に司法手続きを経ずに人を殺害することが認められている。

 

中略

■ 囚人で溢れかえる刑務所

※定員20名の監房に200人を収容。

超法規的殺人の急増に加え、麻薬取締の恐怖からこれまで数千人が自首している。フィリピン当局によると、60万人もが自首してきたが、大多数はまだ収監されていないという。

それでも逮捕者は増え、ドゥテルテ大統領の政策によってすでに満員のフィリピンの刑務所がさらに囚人で溢れかえることになる。マニラにあるケソン市刑務所の写真には、施設の床に所狭しと並ぶ囚人たちが写っている。この施設は800人収容できるよう設計されているが、現在3800人が収監されている。囚人たちは順番に地面で眠るという。

刑務所内の環境はたいてい劣悪なものだ。複数の人権団体は、多くの刑務所が受刑者に適切なケアをせず、伝染病が蔓延しやすいと指摘している。

以上

 

フィリピンには、死刑制度がなくとも、刑務所に収容されると劣悪な環境のせいでバタバタ受刑者が死ぬそうです。

つまりフィリピンでの刑務所の収監とは、場合によっては緩慢な形で執行される死刑でもあります。

 

別名ザ・パニッシャー(仕置き人)ドゥテルテ語録

南かマリネス州にて

「ヘリコプターから中国人を突き落としたことがある」

「また、するかもしれない」
「腐敗にまみれた人間がいたら、ヘリコプターに乗せ、マニラへ向かう途中で上空から捨てる」

2016年12月ダバオ市長の時

「3人の犯罪容疑者を射殺した」

大統領就任日(ガーディアン紙より)

「麻薬中毒者を殺せ」

「麻薬中毒者を知っているなら、そうしてくれ。自分自身で殺してくれ。親が手を下すのはあまりに辛いだろうから」

約6000人を殺害した麻薬密売人に対する取り締まりに対して国連空の非難について
「バカ(国連人権高等弁務官に対して)」

「国連を苦情を申し立てればいい。私は個億連を焼き払う」

オバマ大統領に対して

「私に敬意をはらうべきだ。質問南下するな。このクソッタレが。もし奴が話を持ち出したら会議でののしってやる」

英国チャンネル4ニュースアジア担当の記者に対して

「消え失せろ、くそったれ」

麻薬取り締まりについて演説中

「300万人の麻薬中毒者を喜んで殺害する」」

「俺はヒトラーのいとことして形容されている」
「ヒトラーは300万人のユダヤ人を虐殺した。フィリピンには同じ数の麻薬中毒者がいる。俺は奴らを虐殺する」

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/30/duterte_n_13891390.htmlより

フィリピン南部に布告した戒厳令に関し軍兵士に対しして
「兵士は女性を3人までレイプできる」

この発言に対して元クリントン大統領の長女がツイッターで避難、それに対して
「売春婦ども」とクリントンの長女を罵倒。

「チェルシーは私を非難した。私は冗談など言っていない、ただ皮肉な物言いをしただけだ。私の演説をよく聴いてみろ。私は自分の冗談に笑ったりはしない」

「彼女(チェルシーさん)に尋ねよう、米国の大統領だった父親が、ホワイトハウスでルインスキーや他の女たちとやっていた時にどう思ったのだ?父親を非難したのか?」

オーストラリア人修道女がレイプ殺人された事件に関して
「自分が最初にレイプしたかった」

ローマ法王のフィリピン訪問時におこったとき大渋滞がおこったことを振り返り
「法皇、とっとと帰れ、二度と来るなと思った」

 

それでは、命式を見てみましょう。

四柱推命鑑定 命式 ロドリゴ・ドゥテルテ

【総合鑑定】非業の死を遂げる恐れあり、アメリカによる暗殺の可能性

理由は

★印星(印綬or偏印)が3個以上ある。

このタイプの政治家や軍人は、暗殺等の非業の死を遂げる人が多いです。

先ず、卯と酉が冲「ちゅう」を形成します。その為に天乙貴人が死んでしまいました。

不吉な星、羊刃が有ります。不慮の事故に遭いやすい白虎殺が2個もあります。

飛行機事故に注意です。

 

≪アメリカに盾つく国の元首は、暗殺されるかCIAの工作で政権を転覆させられる≫

★気性の激しい、トランプに対して、暴言を吐きつづけたら終わりでしょう。

ただでさえ、国内に敵の多いドゥテルテは、「政敵」がやったように見せかけて暗殺される恐れが有ります。

宿曜占星術

彼の二十八宿は角宿です。

頑固な職人肌です。

年運を見てみましょう。

コメントなしは、問題なしの年です。

2016年

丙申―比肩

力任せに突っ走って、大統領の座を勝ち取りました。

2017年

丁酉―劫財

疲れる一年でしょう。「暴言」「舌禍」もありそうです。

2018年

戊戌―食神

2019年

己亥―傷官

けじめをつけられる一年です。何かが起きるでしょう。

以上

 

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