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四柱推命占い鑑定|帝国の衰亡|米国暗殺史➃(前)暗殺者レオン・チェルゴッシュ

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暗殺犯、レオン・チェルゴッシュ

ミシガン州アルピーナにて、父ポール・チョルゴッシュと母マリー・ナウアクとの間に生まれる。

両親ともポーランド・カトリック系移民であった。

5歳

一家はデトロイトに転居。次いで10歳の時にオハイオ州ウォーレンスヴィルにある家族所有の農場を離れ、兄2人と共にアメリカ鉄鋼電線社で働く。工場労働者がストライキを打つと、レオンは兄2人共々解雇され、家族所有の農場へ戻る事となる。

16歳

ペンシルベニア州ナトローナのガラス工場で働き始めるが、2年後帰郷。

 

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1898年

無政府主義への関心

多くは暴動に終わる一連のストライキを目撃した後、世捨て人となったレオンは社会主義、無政府主義系の新聞を読み漁る日々を過ごす。

その後、政治活動家のエマ・ゴールドマンの演説に感銘を受けた。

チョルゴッシュはアメリカ社会に富裕層が貧困層を搾取する事で焼け太る不平等が存在し、その理由が政府自体にあると結論付けた。

1900年7月29日

イタリア国王ウンベルト1世が無政府主義者ガエタノ・ブレーシにより銃で暗殺された事件を聞き付け人生が一変した。

 

1901年のチョルゴッシュ

一度は工場労働者になっていたが、数年間無職であり、家族と共に住んでいた。

マッキンリー暗殺の数年前から無政府主義に興味を抱くようになった。

05月

オハイオ州クリーブランドで開かれた有名な無政府主義者エマ・ゴールドマンの講演会に出席。

06月12日

ゴールドマンの自宅があるシカゴに旅して、ゴールドマンが列車に乗って立ち去るまでの短時間話をした。

ゴールドマンは、マッキンリー暗殺への関与を疑われて後に逮捕され、短期間拘留された。

08月31日

シカゴでマッキンリーが博覧会に出席するという記事を読んだ。

その後直ぐに列車に乗ってバッファローに行き、部屋を借りた。

09月03日

口径8ミリの連発拳銃(シリアルナンバー#463344)を、4ドル50セントで購入。

09月05日

大統領の日の祭典にも出ており、大統領のスピーチを聞いた。その時に大統領を狙撃する誘惑に駆られたが、十分に近づけなかったために実行しなかった。

09月06日

大統領と握手することを待つ人々の列に並んだ。持っていた拳銃を隠すために手に白いハンカチを巻きつけていた。

チョルゴッシュは前の人にくっついて並んでいた。

マッキンリーがおよそ10分間握手を続けているときに、コーテルユーがドアを閉めるためにその横を離れた。

午後04時07分

口径8ミリの連発拳銃を携え、再度博覧会場に来場。

音楽聖堂でマッキンリーに近付き2発発射。

1発目はマッキンリーのジャケットに留まるも、2発目が致命的な傷を負わせる事となる。

マッキンリーが銃撃を受け後方に倒れ込んだ直後、群衆の多くはチョルゴッシュに襲い掛かるが、大統領が「彼に危害を与えないでくれ」と言うと、群衆は警察が来るまでそのまま束縛。

チョルゴッシュは警察本部に護送されるまで、バッファロー市内の警察署の独房で過ごす事となる。

チョルゴッシュはその夜全てを告白した。

「私は私の義務を果たすためにマッキンリー大統領を殺した。私は一人の男があのように多くの任務をこなし、他の者はなにもしないでいるべきではないと思った。」と述べた。

09月07日

チョルゴッシュはさらに詳細を語り、単独でやったと主張したが、それでも数日後のゴールドマンの逮捕を止められなかった。

09月13日

チョルゴッシュが改装中の警察本部からエリー郡女子刑務所に送られた。

09月14日

マッキンリー大統領が、感染症により他界。

09月16日

エリー郡拘置所へ身柄が移され、法廷に召喚。大陪審が第一級殺人罪で起訴した後、オーバーン州立刑務所へと移される

チョルゴッシュは投獄中、看守には遠慮無く話し掛けたが、弁護人や精神鑑定を行うために送られた精神科医との接見は一切拒否。

公判中はトマス・ペニーが弁護を担当。

チョルゴッシュ自身は「無罪」を嘆願するも、トルーマン・C・ホワイト統括判事はこれを却下し「有罪」を申し立てた。

09月23日

チョルゴッシュの弁護人の主張

チョルゴッシュが当時精神異常を来たしていたため、大統領を暗殺しても有罪には成り得ない。

検察官

無政府主義への傾倒を殊更に強調し、陪審員に迅速な判決と死刑執行とを要求。

弁護側は何らかの精神異常に一時的にでも罹っていたという証拠が見つけられなかったため、判決は決まったも同然であった。

09月24日

陪審員がほんの1時間だけ審議した後、有罪判決が言い渡された。

09月26日

陪審員が満場一致で死刑を求刑。チョルゴッシュは只管沈黙を守り、有罪判決にも死刑求刑にも感情を一切露わにしなかったと言われている。

10月29日

オーバーン刑務所にて死刑執行。マッキンリーの死から45日後の事であった。

死体は検死され、埋葬に際しては遺体が見るも無残な姿となるよう、棺に硫酸を注入。管理人は遺体が分解するまで12時間はかかったと推定している。

エマ・ゴールドマン

エマ・ゴールドマンが暗殺事件に関与した容疑で逮捕されたものの、証拠不十分につき釈放。

後に論説「バッファローの悲劇」を『自由社会』紙に寄稿すると、悪評を一気に招いてしまう。論説の中でチョルゴッシュをブルータスに擬え、マッキンリーを「金欲とトラスト王」と呼んだためであった。

なお、ゴールドマンによるチョルゴッシュ擁護の姿勢を支持する無政府主義者や急進派はおらず、寧ろ運動に差し支えるのではと考えていた。

1901年11月

音楽聖堂、博覧会場は、解体。現場付近は現在住宅街となっており、石標が建てられた。

チョルゴッシュが用いた拳銃は、バッファロー市内の歴史博物館に展示されている。

命式を見てみましょう。

 

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