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四柱推命占い鑑定|帝国の衰亡|米国暗殺史⑥(前)暗殺者ギトー

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暗殺者チャールズ・J・ギトー

暗殺者というよりストーカーであり病人だった

1841年09月08日

イリノイ州フリーポートにて、ジェーン・オーガストとルーサー・ウィルソン・ギトーとの間に、6人兄弟の四男として生まれた。

一家はフランス系ユグノーの血を引く名家であった。

 

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失敗続きの人生

1850年 学力不足から受験に失敗

家族と共にウィスコンシン州ユーレイオー(現在のグラフトン)へ転居、母が死去する1855年まで同地で過ごす。

青年期に祖父から1000ドルを相続し、ニューヨーク大学を目指してハーレムへ赴くものの、学力不足から受験に失敗。

何度かアンアーバー高校フランス語及び代数の補習を受けようとした後、父からの夥しい叱責の手紙を受け断念を余儀無くされる。

1860年6月 オナイダ教団関連の新聞を創刊しようとするが失敗

父が既に深く関わっていた、ニューヨーク州オナイダのユートピア的宗教団体 オナイダ・コミュニティに参画。

同教団は複婚の一形態である集団結婚を旨としていたが、5年間にわたって結婚とは無縁の生活を送り、「チャールズ・ギトート」と渾名された。

コミュニティを離れた後、ニュージャージー州ホボケンで「日刊神権政治」という、オナイダ教団関連の新聞を創刊しようとするが失敗。

オナイダに戻るものの再度離れ、教団創設者であるジョン・ハンフリー・ノイズを裁判で訴えた。

困った父は、ノイズを支援する手紙を書き送り、ギトーを無責任かつ気違い扱いしたという。

その後シカゴで弁護士資格を取得した。

 

神学に傾倒

しかし上梓した本と言えば、ノイズの作品を粗丸ごと剽窃した代物に過ぎなかった。

1877年12月

説教を行うため町から町へと渡り歩き、ワシントンD.C.の会衆派教会に落ち着く事となる。

1880年6月11日

外輪船SSストニントン号に乗船中、SSナラガンセット号と衝突事故を起こす。SSストニントン号は港に向けて引き返すものの、SSナラガンセット号が喫水線で炎上し沈没、多数の死傷者が発生。

この出来事は、ギトーが崇高な目的を広めたため助かったのだと信じるに足るものであった。

 

神学から政治へ

1880年

大統領選挙で共和党の応援演説を執筆、結局同党からはガーフィールドが候補に選ばれ当選を果たす。

ギトーは、選挙前に「ガーフィールド対ハンコック」と言うガーフィールドを支持した演説原稿を作成していた。

ギトーは公衆の前でその演説を行ったことはなく、その代わりに数百部の写しを印刷したが、この演説原稿が大統領選におけるガーフィールドの政治的勝利に大きく貢献したと信じた。

ガーフィールドの勝利を自分の手柄と考えたギトーは、大使職を求めて最初はウィーンに、次いでパリに赴き掛け合う事となる。

しかし、ギトーの要求は受け入れられず、ホワイトハウスの待合室から締め出された。アメリカ合衆国国務長官から直接に二度と来ないよう言われた。

この接触の後で、ギトーは感謝の念を持たない大統領を殺すよう神が自分に指示していると心に決めた。

 

政治活動家からストーカーへ

暗殺の準備

ギトーは困窮しており服を1枚しか持っていないほどだった。

50ドルを借金しリボルバーを買いに行き、数週間は射撃訓練で過ごした。

ギトーのガーフィールド大統領の手紙の内容

「ブレインを首にすること」

「さもないとおまえと共和党は災難に遭うことになる」

この手紙は、以前ギトーがホワイトハウスに送り付けた文書と同様無視された。

後段へ続きます。

 

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