ロシア帝国①|
最後のロシア皇帝ニコライ2世一家の惨劇|惨劇は天命か?偶然か?

ロシア帝国とは(wiki)
1721年から1917年までに存在した帝国である。
ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。
通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。
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今回は、最後の皇帝ニコライ2世を取り上げますが、まずは、ロシア帝国滅亡の要員の一つ、皇后アレクサンドラを洗脳した、ラスプーチンを取り上げます。
グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン

1869年1月9日
シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれる。
ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった
1887年
プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚
1892年
唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。
出奔後は修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロポフに強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた。
1903年
再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけ、カザンでは司教や上流階級の人々の注目を集める存在となった。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた。
1905年 サンストペテルブルク訪問

ラスプーチンは教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校のセルギウス1世に寄付を求めた。彼の心理的洞察力に感銘を受けたワシーリー・ビストロフに請われ、彼の宿舎に移り住む。
スプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになる。
1905年11月1日
大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見。
当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた。
1906年10月
ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たる。
1907年4月
エカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した。

ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している研究者もいる。
血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた。
1912年10月9日
皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来ていたが、そこでアレクセイの病状が悪化。
皇帝一家はスピアに移り治療を行い、アレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めた。
翌10日、
ラスプーチンは「小さな子が死ぬことはありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょう」と記した手紙を送っている。
ラスプーチンの助言通りにアレクセイは死ぬことはなかったが、病状が回復するのは1913年に入ってからだった。
神の人として信仰をあつめる
やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。

彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。
しかし、貴族たちは次第にラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることに対して嫉妬心を抱くようになった。
1907年9月
トボリスクで開かれた教会裁判において、ラスプーチンは偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難された。
このような醜態は新聞によって大々的に報道され、ラスプーチンの理解者だったビストロフも彼から離れ、ストルイピンも帝都からの追放を画策していた。
また、この時期には「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れた。

噂に基きミハイル・ロジャンコはラスプーチンに帝都から出て行くように要求した。
首相ウラジーミル・ココツェフはラスプーチンを「亡命」させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている。
トボリスク司教はラスプーチンを「皇室とロシア正教会の仲介者」と好意的に見ていたが、大半の司教たちは反感を抱いており、聖務会院はラスプーチンを「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などと非難した。
この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた。
1913年3月
アレクサンドル・グチコフ率いる10月17日同盟がラスプーチンの調査を開始。
しかし、トボリスク司教は調査への協力を拒否した。ニコライ2世もラスプーチンの身を案じて調査の中止を命令した。
1914年1月29日
ニコライ2世はココツェフを解任した。
暗殺
※暗殺現場となったモイカ宮殿

12月16日夜
ユスポフはスタニスラフ・デ・ラゾヴェルト博士と共にラスプーチンのアパートを訪問した。
12月17日 ラスプーチン暗殺
ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺された。
※フェリックス・ユスポフ

しかし、暗殺犯がロシア有数の大貴族だったユスポフや皇族のドミトリー大公だったため、
※ドミトリー大公

警察は満足な捜査を行うことが出来ず、ユスポフに拒否され暗殺現場であるモイカ宮殿に立ち入ることすら出来なかった。さらに、ソビエト連邦成立後に捜査資料の大半が破棄もしくは消失したためラスプーチン暗殺の詳細は不明な点が多く、様々な逸話が残されている。
暗殺決行の数日前、ユスポフはモイカ宮殿の新築祝いのパーティーにラスプーチンを誘い、その際、美人と評判だった妻イリナ・アレクサンドロヴナと引き合わせることをほのめかした(ユスポフは「妻は暗殺とは無関係だった」と語っている)。
毒殺を試みるも、死なず
ユスポフは改築したモイカ宮殿にラスプーチンを招待した。
2階の応接室には暗殺メンバーのドミトリー大公、プリシケヴィチ、ラゾヴェルト、スホーチン大尉の他、ユスポフの母ジナイダ・ユスポヴァの友人がいた。また、この他にも複数の女性が同席していたが、ユスポフは女性の名前を生涯明かさなかった。
ユスポフは青酸カリを盛ったプチフールと紅茶をラスプーチンに用意したという。しかし、ラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も態度に変化を示さず、ユスポフを驚愕させた。
ユスポフはラスプーチンにデザートワインを飲ませ暫く談議していた(政治もしくは神秘主義について話し合っていたという)。
2発発砲、しかし死なず
ラスプーチンが泥酔したことを確認したユスポフは応接室に向かい、ドミトリー大公からリボルバーを受け取った。ユスポフは部屋に戻ると、背後からラスプーチンに向かって2発発砲した。
銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫通し、彼は床に倒れ込んだ。
しかし、死んだと思われたラスプーチンは起き上がり、「目を見開き、自らの危機を知った」という。
4発発砲、しかし死なず
驚愕したユスポフは階段を駆け上がり中庭に逃れ、騒ぎを聞いて駆け付けたプリシケヴィチがラスプーチンに向かい拳銃を4発発砲した。4発の内3発は外れたが、1発は右腎静脈から背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上に倒れた。しかし、ラスプーチンは起き上がった。
右目を殴った後、額に発砲
神経質になったユスポフは靴でラスプーチンの右目を殴り、その後、ラスプーチンは額を拳銃で撃たれた。
遺体を絨毯で簀巻きにし、凍り付いた川に捨てた
絨毯で簀巻きにした遺体を車に積み込みクレストフスキー島に向かい、橋の上から凍りついたネヴァ川に氷を割って開けた穴に遺体を捨てた。

12月17日 捜査開始、暗殺者たちは逃亡
警察が、ラスプーチンが事件に巻き込まれたと確信し、捜査に乗り出す。
警察はモイカ宮殿近くで血痕を発見。しユスポフを問い詰めるが、ユスポフは「事故で飼い犬がドミトリーに撃たれたので、それは犬の血だ」と返答。
ユスポフたちはアレクサンドラに謁見を求めたが拒否され、「書面で事情を説明する」と訴え、プリシケヴィチもそれを支援したが、彼は午後10時にペトログラードから逃亡した。
12月18日
モイカ宮殿の血液が人間のものだと判明し、ユスポフとドミトリー大公は自宅軟禁下に置かれた。
同日午後
ペトロフスキー橋の欄干から血痕が、橋の下からは雨靴が発見され、夜に娘マリアと姉妹たちによって雨靴がラスプーチンの物だと確認された
12月19日早朝
橋から140メートル西に離れた岸辺からラスプーチンの遺体とコートが発見され、15分後に警察や政府関係者が到着した[160][161]。
遺体の手足はロープで縛られていたが、手首のロープは川に捨てられた際に解け、両腕は死後硬直で伸び切っていた]。
同日夕方
ラスプーチンの遺体はチェスメ教会に運ばれた。
12月20日
司法大臣アレクサンドル・マカロフが捜査を妨害したとして罷免された。
同日夕方
ラスプーチンの検死が行われ、死因は頭部を狙撃されたためと結論付けられた
12月21日
ラスプーチンの葬儀が執り行われ、皇帝夫妻と四皇女、ヴィルボヴァと彼女のメイド、デーン、プロトポポフ、ロマン大佐が参列。
イリナの父アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は事件を終わらせるためにニコライ2世に手紙を書いた。
1週間後、ニコライ2世はユスポフを彼の自領ベルゴロドに、ドミトリー大公を前線勤務の形でイランに追放した。
ニコライ2世は二人に対し、「裁判所が二人を起訴することはない」と保証している。
12月24日
警察はユスポフとドミトリー大公への尋問を停止するように命令された
以上
ラスプーチン暗殺事件

ラスプーチンが皇帝一家に対して、おのずから政治的になにか積極的に働きかけた形跡はありません。皇后に乞われれば、霊能者としてアドバイスをするという形であり、霊能者として答えていただけでしょう。そもそも、無学文盲なラスプーチンには、そんな知性はありませんでした。
知性も知識も常識もない無学文盲の田舎者が、なんらかの理由で尋常ならざる霊能力をもち、皇帝一家から信頼を得たものの、野卑で無教養な育ちからくる、だらしない野合生活や、生活態度に対して顰蹙を買ったことや、貴族たちから皇帝一家からの寵愛を得ていたことに対して嫉妬を買い、その結果、殺された、という事件でした。
カルトの教祖としては朝鮮半島の宗教に見られるような、精力絶倫な霊能者が、多数の女性信者を支配するという先史時代的な形態ですね。
★余談ですが、第一次大戦を戦った3国、英独露の元首、①イギリスのジョージ5世、②ロシアのニコライ2世、③ドイツのヴィルヘルム2世は、3人とも互いに従兄弟だったそうです。共通の祖母が、イギリスのビクトリア女王。ニコライ2世の皇太子、アレクセイの「血友病」の遺伝子は、ビクトリア女王由来のものだそうです。
①②③の王たちは、互いによく似ています。

英国のジョージ5世以外の王朝は断絶しました。英国もまた、第二次世界大戦後は、植民地を手放し大帝国でなくなります。
それでは、超能力を持ち、暗殺に際しては、青酸カリを飲まされても平気で、ピストルで心臓を撃たれても立ち上がったという怪物の命式を見てみましょう。