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四柱推命占い鑑定|帝国の衰亡|ロシア帝国|ニコライ二世(前)

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ロシア皇帝|ニコライ二世

皇帝と、国民の間に立って、「嫌われ者役」となっていたラスプーチンが、排除され、国民の不満は一気に皇帝ニコライ2世に向かいます。

奇しくもラスプーチンが暗殺された1916年、「2月革命」が起き、皇帝は退位し、帝政ロシア、ロマノフ朝は崩壊しました。

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ロシア皇室の最期

ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館に監禁(資産家イパチェフの家を接収して使用)された。

イパチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。

ニコライ2世は死の4日前まで日記を書き続けた。

イパチェフ館の警備兵を務めたアナトーリ・ヤキモフの証言

「皇帝はもはや若さを失い、髭も白いものが目立ち始めた。私は彼が兵隊シャツを着て、腰に将校ベルトを締めているのを見た。シャツもズボンも同じカーキ色で、長靴は擦り切れていた。

眼は優しく、本当に穏やかな表情をしていた。私は彼が親切で、単純素直で、気の置けない人柄だと思った。私に話しかけようとしているように思える時もあった。本当に、私達に話しかけたがっているようだった」

と書き記している。

 

1918年7月17日午前2時33分

チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、ウラジーミル・レーニンは、ロマノフ一族全員の殺害を命じた。

元軍医でチェーカー次席のユダヤ人のヤコフ・ユロフスキー率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が元皇帝一家7人、ニコライ2世の専属医(エフゲニー・ボトキン)、アレクサンドラの女中(アンナ・デミドヴァ)、一家の料理人(イヴァン・ハリトーノフ)、従僕(アレクセイ・トルップ)の合わせて11人をイパチェフ館の地下で銃殺した。

これにより、元皇帝夫婦ニコライ2世とアレクサンドラの血筋は途絶えた

★皇帝一家の処刑については、革命政権の幹部でも、議論があったようです。

トロッキー「幽閉したままでよいではないですか」

レーニン「ダメだ。既にニコライの手は血にまみれている」

結局、力関係で、レーニンの意見が通り、惨劇は起きました。

犠牲者は皇帝一家と、彼らの忠実な、スタッフたちです。レーニンが、皇帝殺害を決めた時点で、妻の皇后、娘たちの皇女、息子の皇太子の運命は決まりました。

昔、中国の王朝の明が滅亡する際、最後の皇帝の崇禎帝(すうていてい)は、宮廷を反乱軍に包囲されると、先ず、泣きながら「何故、私の娘に生まれたのか!」と叫びながら皇女たちを、自分の手にかけたのち、首を括って自害しました。自分だけ死ぬと、皇女たちは、反乱軍に凌辱されて殺されるのが目に見えていたからです。

つまり、皇女たちの悲惨な最期は、崇禎帝(すうていてい)の娘に生まれたことによる宿命でもあったでしょう。

同じことは、ニコライ2世の、皇后、皇女、皇太子にも言えますが、一緒に銃殺されたスタッフたちは、自ら選んだ運命ともいえるでしょう。

ひとえに、自分の職責への使命感と、皇帝一家への忠誠心が選び取らせた運命でした。何故なら、皇帝一家を見捨てて、逃げることもできたわけですから。

皇帝一家以下、彼らが、ソ連崩壊後、ロシア正教会に「列聖」されている意味が分かります。

 

《ニコライ2世人となり》

1868年5月18日誕生。

ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 – 1917年3月15日)。

父アレクサンドル皇太子、母マリア・フョードロヴナとの間にうまれる。

※父アレクサンドル皇太子、母マリア・フョードロヴナ

皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。

 

皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。イギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。

日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招いた。

1918年7月17日未明

エカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。

性格

ひ弱で凡庸な皇帝とイメージされることが多い。有能な人物に対する嫉妬からこれを遠ざけ、従順な臣下の取り巻きのみを重用するタイプであったため、統治者には向かなかったとする批評もある。

プライベートでは写真撮影が趣味の家庭人で誠実な人物であったという。外交においても、フランスを出し抜いてドイツ皇帝と締結した密約を最終的には破棄するなど、権謀術数が渦巻く当時のヨーロッパにしてはめずらしく、同盟国に対しては忠実であった。

★指導的な役割を果たした大きな二つの戦争で敗れ、それが、革命を招き、帝政が崩壊し、最後は自分の運命を決めることになりました。

日露戦争については、日本視察の経験もあるクロパトキン将軍が「日本の軍事力を侮ってはいけない」と対日戦に反対しました。

蔵相のヴィッテも「国内が革命の機運に満ちている今、日本と戦争すべきではありません」と諫言しましたが、口のうまい取り巻きに乗せられて、開戦し世界最強の陸軍が、満州では日本軍に大敗し、バルチック艦隊も対馬海峡で全滅をするという、欧州国家が、有色人種の国に負けるという世界史的な屈辱を得ました。

第一次大戦も、ラスプーチンは反対したにもかかわらず、露仏同盟に従って、対独開戦し、タンネンベルグの戦いで大敗し、継戦能力を失い、屈辱的な講和を結び、連合軍から一抜けしました。

幼少の頃の「帝王教育」も残念な方だったという記録が残っています。

命式を見てみましょう。

後段へ続きます。

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