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四柱推命占い鑑定|帝国の衰亡|ロシア皇女マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ鑑定

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マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ

1899年6月26日

は、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女として誕生。

1917年

二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。

1918年7月17日未明

エカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族や従者とともに19歳の若さで銃殺された。

2000年

ロシア正教会によって新致命者として列聖された。

 

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最も美しい皇女

マリア自筆のサインカード。ルイス・マウントバッテンは1979年に爆死するまで自室のベッドの横にこの肖像写真を飾っていた

姉のタチアナも美人の誉れ高かったが、「ロマノフ家の伝統的な美しさ」を継承したと言われていたのはマリアであった。

クラウディア・ビットナー回顧録

マリア・ニコラエヴナは最も美しく、典型的なロシア人であり、気立てが良く、陽気で、穏やかで、心優しい少女だった。彼女はみんなと、とりわけ一般人、兵士との会話を好み、会話をすることが出来た。彼女はいつも兵士達と似た所が多かった。

彼らは彼女の容貌や強さがアレクサンドル3世に似ていると述べた。彼女はとても力強かった。病気のアレクセイ・ニコラエヴィチを移動させる必要があった時は彼が「マーシャ、僕を背負って! 」と大声で叫び、彼女はいつも彼を背負っていた。人民委員パンクラトフは非常に彼女を愛し、あからさまに彼女を敬い慕っていた。描画や裁縫の能力に優れていた

 

皇女の夢 兵士と結婚して大家族を持つこと

1915年頃。アナスタシア(右)とともに負傷兵を見舞うために病院を訪れたマリア

第一次世界大戦中には2人の姉のように赤十字の看護師になるにはまだ若過ぎたため、その代わりに病院の後援者となって負傷した兵士たちを見舞った。生涯を通じてロシア軍の兵士に強い関心を持ち、兵士と結婚して大家族を持つことを夢見ていた。

 

外界・親類からも途絶した家庭環境

1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った。

早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方もあった

マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた

命式を見てみましょう。

マリア・ニコラエブナ(ニコライ2世第3皇女)

1899年6月26日生まれ~1918年7月17日(19歳没)

・・・・上 中 下 宿命星  蔵干   十二運 吉凶星

年柱  己 亥 壬 偏財 印綬      死 天徳貴人 駅馬

月柱  乙 午 丁 正官 食神 傷官   長生 文昌貴人 咸池

日柱  乙 丑 己    偏財      衰

時柱  丙 戌 戊 傷官 正財 食神   墓 飛刃 暗禄 華蓋 寡宿2個

【戌亥空亡】年柱が空亡している。

 

【総合鑑定】美人薄幸、年柱の空亡に加えて弱い命式。

年柱の空亡で、天徳貴人が死んでしまいました。吉星は暗禄があるのみです。

十二運も、長生、衰、墓と身弱です。6月末生まれの乙(草花)ですから、初夏で水分不足です。旬でないので、月令は得ていません。

《食傷過多の成立》

食神2個と、傷官2個で食傷過多の成立です。病気や災厄に縁があるでしょう。

最後の日の行運を見てみましょう。

1918年07月17日

・18年 戊午丁 正財 食神・・・羊刃2個

・7月 己未己 偏財 偏財・・・羊刃2個

・17日 乙丑己 比肩 偏財

年運も月運も羊刃が2個も巡ってきて、不吉です。

7月は未の月ですが、日柱の丑と冲「ちゅう」を形成します。不吉です。

 

生存説とその真相

マリアが生き残ったという主張がこれまでに何度かされてきた。

チェスラヴァ・シャプスカ(英語版)がマリアであった説

その孫のアレクシス・ブリメイヤー(英語版)は自分を「アレクセイ・アンジュ・ド・ブルボン=コンデ・ロマノフ=ドルゴルーキー王子」と称した。彼によると、祖母はルーマニアに逃れて結婚し、娘オリガ・ペアタを産んだと述べた。

しかし、彼は自分達の爵位を悪意を持って使用したと憤慨するドルゴルーコフ家やベルギーにあるロシア貴族の子孫協会から1971年に提訴された後、ベルギーの裁判所で懲役18ヶ月を宣告された。

マリアとアナスタシア姉妹は修道院にいた説

マリアとその妹アナスタシアであると主張する2人の若い女性が1919年にウラル山脈の奥地にある山村で司祭によって匿われ、1964年に亡くなるまでこの地で修道女に姿を変え、怯えながら2人一緒に暮らしたという話が伝えられている。

それぞれマリア・ニコラエヴナとアナスタシア・ニコラエヴナの名で埋葬された。

南アフリカに移住した説

ガブリエル・ルイス・デュバルがその著書の中で祖母のグラニー・アリーナ(英語版)は大公女マリアだったかもしれないと主張した。デュバルによると、彼の祖母はフランクという名の男と結婚して南アフリカ連邦に移住し、1969年に死亡したという。

 

DNA鑑定の結果、皇帝一家は全員死亡

皇帝一家の死体の数があわないことから、死後、姉妹の中で彼女だけ、生存説が囁かれた。

2007年

別の場所で欠落していた大公女の遺骨も発見され、DNA鑑定によって1918年に皇帝一家全員がエカテリンブルクで殺害され、一人も生存していなかったことが証明された。

ミトコンドリアDNAを比較した結果、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの一番上の姉ヴィクトリアの孫、エディンバラ公フィリップ王配に遺伝的な繋がりがあることが確認された。ヤコフ・ユロフスキーは手記の中で、埋葬地とは別の場所でマリアとアレクセイの2体の遺骨を焼却したと述べている。

2008年4月30日

スヴェルドロフスク州の知事、エドゥアルト・ロッセリはアメリカの遺伝子研究所で実施された検査で2体の遺骨がアレクセイとマリアのものであったと確認されたと明かし、「我々は今、家族全員を発見した」と述べた。

2009年3月

2体の遺骨はアレクセイと彼の姉の大公女のいずれかのものであったことがDNA鑑定によって証明されたことが正式に発表された。この結果、皇帝一家が殺害されてから90年以上が経過して全員がエカテリンブルクで殺害され、一人も生存していなかったことが科学的手法によって証明された。

以上

 

戦後、◯◯天皇を自称する山師が多くでてきましたが、姉妹をなのる偽物も多く現れたようです。

マリアをはじめとする兄弟は、母のアレクサンドラの性格がもとで、一家がロシア皇族から孤立していたこと、父のニコライ二世も家庭第一だったことから、一般家庭に近い家族環境のなか育ちました。

欧州の身分階級でも最高位に位置するロシア皇女として生まれ、ルイス・マウントバッテンが死ぬまで憧憬していたほどの美貌の持ち主でありながら、夢は「ロシアのためになる結婚をし、ロシアのために生きる」ではなく、「兵士と結婚して大家族をもつこと」というのは、子供時代の夢であったとしても、究極の公人である皇女としては、残念な気がします。

ルイス・マウントバッテン

ニコライ二世の家庭の、一般市民化に、ロシア皇室の衰亡をみることができると思いました。

 

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4 件のコメント

  • 姉君・タチアナ皇女と並び、『佳人薄命』を地で行く皇女様ですな。憧れを捧げられた従弟のルイス・マウントバッテン卿に嫁いでいたら、また運命が変わったと思われます。

    • yukaさんへ

      マウントバッテン卿の気持ちがわかる気がします。
      しかし、宿命の悲しさは、母親は出産するか否かを選べますが、
      子供は親を選べないという、ごく当たり前の不条理です。

  • マリアにもどこかで生き残っていて欲しかったですが、現実は残酷ですね。皇后は義母とソリがあわなかったのですね。結婚を夢見てることを言ってのけるところが、快活で好感がもてます。兵士ってことは軍服好きだったんですかね。将校クラスだったら、多少けっこうお似合いだったかもしれません。

    • きなこさんへ

      歴史にifは無いけれど、ロシア革命が起きなければ、成長したらロシア軍将校のコスプレを

      見せてもらいたかったですね(笑)

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