無限拡散|デニス・テン(10)李氏朝鮮の惨めな冊封体制(下)

デニス・テン(10)李氏朝鮮の惨めな冊封体制(上)からの続きです。拡散希望です。

豊臣秀吉の朝鮮征伐

秀吉の晩年から、亡くなるまで6年間続きました。

文禄の役で、25万から30万の日本軍が、渡海上陸作戦を成功させました。

16世紀では、世界最大規模の戦争で、後の第二次大戦時の米英軍のノルマンジー上陸作戦を350年先取りするものでした。

この世紀の大作戦を「輸送、兵糧」等の兵站戦を立案した石田三成という男は、関ヶ原で敗将となりましたが、やはり天才でした。

 

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朝鮮征伐で露呈した李氏朝鮮の腐敗

昔から、弱い朝鮮兵は連戦連敗を続けますが、日本の大名を驚かせたのは、「朝鮮人の日本軍に対する協力」です。

日本軍に「道案内」する市民

首都の漢城(今のソウル)では、日本軍が到着する前に、朝鮮の民衆が、王宮に火を放ってしまいました。

韓国での犯罪の特徴は

  • 強姦
  • 傷害、暴行
  • 放火
  • 詐欺

です。

当時から、民族のDNAとしてあったようですが、李氏朝鮮の王族も支配階級の両班も暴政を敷いたために、それだけ、民衆から憎まれていたのでしょう。

李氏朝鮮国王の宣祖、惨めな都落ち・・・・Wikiより

4月29日、宣祖は暁と共に出発することを決断した。

小雨の降る中で李恒福が灯燭を掲げて先導して、国王、王妃、淑儀、信城君(四男)や定遠君(五男)は轎(かご)に乗り、世子(光海君)は馬に、後の李山海や柳成龍などの朝官、侍女、奴婢など100余名は徒歩で敦義門をくぐって西に向かった。

日が昇り、沙峴まで来たところで後ろを振り返ると、漢城府からはあちらこちらから火炎と煙が上がっていた。

・朝鮮乱民は、まず囚人や奴婢の身分記録を保存していた掌隷院と刑曹に放火。

・次に内帑庫(王室財産保管庫)を金品財宝を略奪。

・国王の住居である景福宮が荒らされる。

・昌慶宮と昌徳宮の2つの別宮も放火と略奪。

・大倉庫も放火。

・弘文館、春秋館の古典や歴史記録、承文院の外交文書も放火。

・一部の家臣が、王室の畜舎にいた家畜を盗んで逃亡。

・住民が漢城府から逃げ出す王に投石。

・宣祖の一行は進む先の村々で住民と出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。

★民衆から、石を投げつけられる朝鮮王、惨めですね。

開戦から、わずか21日で、首都が陥落したのでした。

 

日本軍を歓迎する朝鮮民衆

日本軍が入城した頃には景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮はすでにほとんど焼け落ちていた。

『宣祖実録』によると、朝鮮の民衆は李朝を見限り、いわゆる叛民となって、日本軍に協力する者が続出したという。

また同じく朝鮮の史書『燃藜室記述』にも、日本軍が敵の伏兵を恐れて容易に城内に入れないでいると、宗廟宮闕を掠奪して家々を放火した朝鮮人の叛民が門を開けて、日本軍を迎えたと書かれている。

ルイス・フロイスも、朝鮮の民は「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している。

 

加藤清正大手柄の真相とは

加藤清正は、今の北朝鮮の中朝国境付近まで進撃し、「朝鮮の二王子」を捕虜とする大手柄を挙げます。

しかし、その真相は

7月23日

二番隊は会寧に入り、そこで加藤清正は、日本側に寝返った朝鮮の府使鞠景仁や地元住民によって既に捕らえられていた2人の王子(臨海君、順和君)、さらにその従臣である金貴栄、黄廷彧、黄赫(黄廷彧の子)、李瑛(会寧府使)、李銖(穏城府使)、李弘業(鏡城判官)、文夢軒(会寧府使)、柳永立(咸鏡道観察使)等20余人を捕虜として受け取った。

★地元住民が自分の国の「二王子」を捕らえて、加藤清正に差し出した。

凄いですね~怖いですね~

なんで、李氏朝鮮の王族はここまで、国民に嫌われたのでしょうか。とほほほ

 

日本軍、「朝鮮人陶工」のリクルート開始

初戦から、連戦連勝で余裕の日本軍は、各大名が競って「朝鮮人陶工」のリクルートを始めます。

2回の朝鮮征伐は、秀吉の死により、停戦、撤兵となり、参加大名は新領地の獲得は有りませんでしたが、「見る目」がある西国大名は、当時の朝鮮人の持っていた「金になる技術」を発見します。

薩摩の島津氏の薩摩焼、佐賀の鍋島氏の有田焼、長州毛利家の萩焼。

★強制連行したのではありません。

通訳を介して、報酬を説明して、納得づくで連れて帰ったのです。

積極的に、リクルートした西国大名の中には、朝鮮人陶工の手や足を傷つけたものは処罰するという厳しい軍令を課したところもあったそうです。

 

何故「朝鮮人陶工」達が納得ずくで日本に来たのか

これは、現在の韓国にも続いている、民族の「価値観」ですが、「汗」を書いて労働することを軽蔑するのです。

★「技術者」に対する蔑視が酷く、それは今の韓国でも続いている。

拓殖大学の帰化韓国人の呉善花教授が著書で述べていますが

韓国の児童にとって、一番いやなことは、自分の父親が働いているところを人に見られることだそうです。

日本人と真逆ですね。「働くお父さんはかっこいい」ですもんね。

李氏朝鮮国内では、どんなに必死に働いて、素晴らしい陶磁器を作っても、評価されるどころか、報酬は少ないし、支配階級からは永久に蔑まれる。

「こんな会社、辞めてやる(怒)」というところでしょう。

それが、鬼のようだと思っていた日本の将軍たちから「是非、来てください。好条件で雇用します」と強いプッシュを受けたら行きますよね。

約束通り、島津家では、苗代川ほとりに、住居や窯を用意し、好待遇で焼きものづくりに専念してもらいました。

そして、広範な自治を認めたので、明治まで、彼らの居住エリアでは朝鮮語が使用されていたとか。

 

帰国要請を拒否した「朝鮮陶工」達

秀吉が死に、徳川家康が天下を取ると、李氏朝鮮と「平和条約」を結び、戦争状態を終わらせました。

その直後、朝鮮の外交僧が、西日本各地を回り朝鮮人陶工たちに会い、帰国を要請しましたが、それに応じて朝鮮に帰国した人は非常に少なかったそうです。

中には、妻子を残して来日した陶工もいましたが、自分の「技術力」を正当に評価してくれて、待遇もよく、地域の日本人も尊敬してくれるから帰る気はないと泣いて断った人もいたそうです。

朝鮮征伐で、新領土は得られませんでしたが、日本製の陶磁器は江戸時代を通じて、現在もそうですが、日本にとって貴重な「輸出産業」になりました。

特に、ヨーロッパに輸出されたものは、陶磁器の包装紙に使われた「浮世絵」が大ヒットし、ゴッホなどに強い影響を与えて「ジャポニスムブーム」を引き起こしました。

 

600年の「惰眠」を貪り続けた「脳死国家」李氏朝鮮

★これだけ「統治能力」の無い王朝が600年以上も続いたことに逆の意味で驚きを禁じ得ません。

李氏朝鮮、唯一の作品は「ハングル」のみ。といっても過言ではないでしょう。

「儒教の毒」を更に濃縮し続けた李氏朝鮮の「アジア的停滞」

宋の時代に、成立した儒教の一派の「朱子学」は、李氏朝鮮に入り、朝鮮の儒者により「性理学」まで「濃縮」されました。

「濃縮」と書いたのは、「発展」ではないということです。

★「無価値」で「非生産的」な空理空論となって、余計「儒教の毒」が猛毒となったのです。

その猛毒である「性理学」を、王族と両班からなるたった1%の支配階級が、汗をかいて働くことを軽蔑しながら、朝から晩まで一生涯、無意味な論争を過ごしました。

唯一、世界市場で勝負で来た「陶磁器技術」も、陶工たちを奴隷扱いしたため、皆日本に亡命されてしまいました。

そして、日本は明治を迎えます。

 

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