無限拡散|デニス・テン(15)先祖は朝鮮馬賊か?

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(13)からの続きです。拡散希望です。

デニス・テンの先祖は朝鮮馬賊か?

中国人馬賊団との差はなく、独立運動を騙った問うことだけが違う

P144  「独立軍の正体」

「彼らは当時、治安不在だった満州地域で組織された朝鮮人馬賊団であり、同胞の財産を奪い、殺人や拉致、強姦、放火など、治安を乱し犯罪を行った、盗賊団のような存在に過ぎなかったと思われる。その行為においては中国人馬賊団との差はなく、ただ一つ、独立運動を騙った問うことだけが違う」

日帝時代に満州とソ連領沿海州に進出した「朝鮮系日本人」は、このような馬賊団により数えきれないほどの辛苦を舐めた。

『親日派のための弁明』英雄の虚像、日帝の実像、キム・ワンソプ
P146

独立軍の正体

「馬賊」は文字どおり、馬に乗り群れをなして行動する盗賊団を言う。とはいえ、常に馬に乗って行動するわけではないため、場合によっては匪賊(群れを成して行動する盗賊団)、兵匪(武装した盗賊団)、土匪(共産ゲリラ)など、さまざまな名前で呼ばれた。

これらの盗賊団は、中国の歴史においては秦・漢以来、豪侠を自負していた連中で、ときには義賊といえるケースもあったが、大部分は山奥に住みついて民家から略奪し、歯かを盗掘した理賭博や飲食をしたりすることに時間を費やした。
ある記録によると、

「彼らの眼中には政府もなく、祖国もなく、仁義や道徳もなく、彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく、秤を争って金と銀を分配し、派手な衣装をひっかけて斗酒をのみ、肉の塊を丸ごと呑みこむかと思えば、女を拉致してかわるがわる強姦した跡、道端に捨てる肉塊行為以外にはすることがない」
と描写されている。

日程時代に満州と沿海州に進出した朝鮮系日本人は、このような馬賊団により数え切れないほどの辛苦をなめた。

満州地域の馬賊団には中国人が多かったが、単一民族で構成されたケースは珍しく、ロシア人、モンゴル人、朝鮮人など、いくつかの民族が混合した馬賊団が多数であったという。
ところが、主に朝鮮人を苦しめたのは、独立軍を語った馬賊団であったため、当時は独立軍と馬賊軍の間に大きな差はなく、呼称があっても区別しなかったようである。

当時の朝鮮総督府と日本政府の記録には「鮮匪」という名称もよく登場する。
これは、朝鮮人匪賊という意味で、ほとんどが独立軍を語った連中だった。
かれらは満州の朝鮮人居住地域だけではなく、よく国境地方に入り込んでは軍資金調達にかこつけて強盗や殺人、拉致、法か、破壊などの乱暴を行ったため、満州と北部国境地域の治安に大きな混乱をもたらした。

以上

★このソ連領の沿海州で「独立軍」を自称し、馬賊行為を行っていたのが、沿海州に逃げ込んだ、デニステンの高祖父の一族だと思います。

 

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《朝鮮独立軍の拠点間島》

間島(かんとう)とは・・・・Wikiより

https://web.archive.org/web/20150912161012/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6

は豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。豆満江を挟んで、北朝鮮と向かい合う。

間島パルチザン

日本の韓国併合後、朝鮮人が多数集住しながら、日本の主権下にない間島地域は独立軍など抗日パルチザンの根拠地となり、これらパルチザンは朝鮮北部にしばしば出没した。1920年(大正9年)には日本が間島出兵を行い、独立軍との間で青山里戦闘を戦った。

 

間島出兵とは・・・・Wikiより

https://web.archive.org/web/20150908203531/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6%E5%87%BA%E5%85%B5

満州の間島(現・中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州)で日本軍が朝鮮人や中国人の活動家、匪賊、馬賊に対して実施した鎮圧・掃蕩作戦である。

背景

・満州の間島と呼ばれる朝鮮人居留地域において、独立軍と総称される朝鮮独立運動に関わる武装組織の活動が活発化した。

・これらの武装組織は、居留朝鮮人から金品や食料を調達したり、中国官憲やロシア過激派との協調を通じてその武力を蓄えていた。

・日本側は武装組織に関わる朝鮮人を「不逞鮮人」と呼び、中国側に討伐を要請したが、ほとんど成果が現れなかった。

1920年(大正9年)6月4日、午前5時

朝鮮人武装組織50人が豆満江を渡河して日本の警察憲兵及び守備隊と銃撃戦となり、武装組織は三屯里の民家に退却した。

日本側の損害はなし。

武装組織は1人戦死、2人負傷し、2人捕虜。小銃2挺、小銃弾245発を押収した。

独立軍の主力と衝突した日本軍は第19師団の東支隊のみであり、その戦いも数日のうちに独立軍の撤退という形で終わり、他の支隊では散発的な小規模戦闘がみられただけであった。

満州を逃れた朝鮮人武装組織は、レーニンが構想した遠東革命軍に参加するためロシアのスヴォボードヌイ(自由市)に集結した。

戦いの指揮を執ったとされる洪範図は、その後赤軍に吸収され、高麗人としてカザフスタンに強制移住させられ、その地で没した。

独立軍の「首魁(しゅかい)」の一人とされる、洪範図は、カザフスタンに移住させられています。

デニステンの親族と関係がありそうです。

洪範図(ホムボムド)とは・・・・Wikiより

https://web.archive.org/web/20160104064525/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%AF%84%E5%9B%B3

★世界最強だった日本陸軍から見れば、「独立軍」は所詮「烏合の衆」で、眼中になかったのか、詳細な記録は有りません。

年表形式で、簡略に解説されています。

この男の人生が、「独立軍」とカザフスタンとを結ぶ典型的な歴史です。

生涯

  • 1868年- 平安北道慈城郡に生まれ、幼時に両親を亡くす。
  • 1887年- 黄海道の製紙工場で働く。
  • 1890年- 賃金で雇用主と揉め、仕事を離れて金剛山の神渓寺に入る。
  • 1907年9月3日 – 統監府の後押しで公布された「銃砲及火薬類団束法」により猟師生活ができなくなり、甲山郡で義兵に身を投じた。その後三水郡・甲山郡などを転戦。[1]
  • 1910年- 日韓併合後に満州に亡命。
  • 1913年- ウラジオストクに移住。
  • 1919年- 間島国民会の大韓独立軍を率い、朝鮮領内を襲撃。
  • 1920年
    • 6月 – 鳳梧洞戦闘を指揮。
    • 10月 – 青山里戦闘を指揮。後に独立軍の統合を行い大韓独立軍団を組織し、金佐鎮と共に副総裁。
  • 1921年
    • 6月 – ロシアによる解散命令を契機に内紛し組織は壊滅(自由市惨変)、大韓独立軍は赤軍に吸収されイルクーツクに移動。
    • 11月 – 抗日ゲリラ代表としてレーニンと会う。
  • 1922年- モスクワで被圧迫民族大会に出席。
  • 1923年- 沿海州以南地域のコルホーズで活動。
  • 1927年- 全連邦共産党に入党。
  • 1929年- 年金生活。
  • 1937年- ヨシフ・スターリンによる朝鮮人強制移住政策によりカザフスタンに移住。
  • 1943年10月25日 – カザフスタン・クジルオルダにて没、齢76。
  • 1962年10月25日 – 韓国で建国勲章大統領章が叙勲された。
  • 1998年10月 – 大韓民国国家報勲処が選ぶ1998年10月の「今月の独立活動家」に選ばれた。

以上

★カザフスタンに強制移住させられた1937年という年がキモです。

大韓民国が表彰する功労者は日本人を殺した犯罪者がほとんど(怒)

洪範図(ホムボムド)も1998年に「国家功労者」に選ばれています。

デニス・テンが「練習妨害事件」を起こしたときに、開き直って強気に出た理由がよくわかりますね。

そして、満州国の成立で状況が変わります。

続きます。

無限拡散|デニス・テン(16)|北朝鮮とカザフスタン

 

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