血刃&駅馬|成功者メッテルニヒ

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「血刃&駅馬」のペアが3組も有っても、長寿で極楽大往生した政治家もいる

タイトルのように、世界史的著名人で「血刃&駅馬」のペアから逃げ切った有名政治家がいます。

★四柱推命の「法則」には、必ず「例外」があります。

ですから、私は「四柱推命の的中率はどのくらいか?」と聞かれれば「相当高い」と答えるにとどめています。

自然科学の「理論物理学」ではないわけですから。

その人物とは、高校の世界史で教わるこの人です。

クレメンス・フォン・メッテルニヒ

クレメンス・フォン・メッテルニヒとは・・・・・Wikiより

http://archive.is/QrtPW

オーストリア帝国の政治家。コブレンツ(現:ドイツ・ラインラント=プファルツ州の都市)出身。オーストリアの外相としてウィーン会議を主宰したほか、のちオーストリア宰相に就任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えた。

 

ウィーン体制とは・・・・・Wikiより

http://archive.is/9XjYL

ウィーン会議(1814-1815年)以後のヨーロッパの国際秩序である。1848年革命を経てクリミア戦争(1853年-1856年)によって完全に崩壊するまで続いた国際的体制であった。

ウィーン会議でフランス首相タレーランの主張した正統主義を基に、フランス革命とナポレオン戦争で荒廃・混乱したヨーロッパを、それ以前の状態に復活させることにより大国の勢力均衡を図った。キリスト教の理念に基づく神聖同盟やフランスを牽制する四国同盟(のち王政復古を果たしたフランスも加入が認められて五国同盟となる)など、従来の君主制に立脚する列強を中心に自由主義・国民主義運動を抑圧した。一方で、その基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから、歴史的にみても比較的長期(見方によっては第一次世界大戦まで)の安定をヨーロッパにもたらした。

教科書に書いてある通りですが、御存知のように

フランスで世界史上初めて「革命」と言うものが起こり、「王制(ブルボン朝)」が斃されました。

革命後の混乱を収拾する過程で、ナポレオンと言う「世界史上不世出の天才軍人」が登場して、フランスに侵入する列国の「反革命軍」を撃破し、国内の混乱を収拾した。

そして、国民投票で、皇帝となり、イギリスも含めた欧州大陸の軍事的制覇を目指しました。

ナポレオンは様々な「軍事革命」を起こしましたが最大の者は

★「徴兵制」のよる「国民軍」の創設です。

彼が出現するまでの、欧州大陸での戦闘の主役は、金で雇われて戦う「プロの傭兵」でした。従って、ギャラが悪いと平気で敵側に寝返りました。

しかし、フランスは違います。

折角できた「共和国」を守るために、身分・出自を問わない「愛国心」の有る、若者ばかり集まっていましたから「士気」が違います。

ナポレオンが出現するまでは、欧州の列国の軍人は、将校クラスは世襲貴族が多かったですが、ナポレオンの将軍たちは違います。

また別の機会に述べますが、「元帥」まで出世した人の中に、樽づくり職人の息子や、密貿易商人の子、役場の事務員の子、等々バラエティに富んでいます。

★完全な「実力・能力主義」だったんですね。

 

ナポレオンの「国民軍」によく似た幕末長州の「奇兵隊」

幕末に、幕府から2度にわたって「長州征伐」をやられた長州藩は、2度目は「国の存亡」をかけた絶対に負けられない戦争でした。

藩内を仕切っていた「俗論党(対幕府恭順派)」を、「奇兵隊」を創設した高杉晋作がクーデターで倒すと、1度目の降伏(毛利家家老4人の切腹)ではなく、徹底抗戦で「藩論」を統一しました。

4か所の国境から攻め込んでくる、幕府軍と戦うために、奇兵隊の隊員を増強します。

長州にとっては「国家総力戦」となるため、身体壮健ならば、出自は一切問いませんでした。

しかし「農民」を徴収すると「兵糧米」を作る人がいなくなる。

「鍛冶屋」さんを徴収すると、鉄砲や、大砲、武器を作る人技術者がいなくなる。

「商人」を徴収すると、「軍資金」の調達に動いてくれる人がいなくなる。

もうどの「職能区分」から徴兵したかわかりますね。

その中に、後の伊藤博文や、山縣有朋がいたのです。

 

江戸時代に既に「責任内閣制」ができていた長州毛利家

毛利家は、初代元就は別にして、2代目の輝元公から、家臣に対しては、「超の付く温情主義」でした。

江戸時代から、沢山いる家老の中から、最も優秀なものを「筆頭家老」のようなものにして、現在の総理大臣と同じ、「藩政」は全て任せていたようです。

失敗したら「退陣」させる、「責任内閣制」と同じです。

毛利公は「君臨すれども統治せず」ですね。

そういう意味で、明治維新後の、政府高官の長州人たちは、実は「天皇機関説」にも内心同意だったし、戦後の「象徴天皇制」にも違和感がなかったと私は思っています。

日本の「皇室制度」の「顕教部分」も「密教部分」も知り尽くしているから、山口県から、宮本顕治のような日本共産党の委員長が出たり、今も「国際指名手配中」の日本赤軍の奥平純三(兄弟そろって京大でのエリート)のような連中が出るのでしょう。

今と違うのは、領民による「選挙」がないだけです。

特に、王政復古までの最後の藩主の、毛利敬親公に至っては、筆頭家老が「こう決まりましたがいかがでしょうか?」とお伺いを立てると、なんでも「そうせい」と言うだけなので「そうせい公」と呼ばれたそうです。

敬親公は、可愛がっていた吉田松陰が幕府に処刑された後は、松陰の「月命日」には「今日は寅次郎(松陰の幼名)命日だから」と言って、食事のおかずを一種類減らしていたそうです。

「版籍奉還」・・・・明治新政府ができて、全ての大名の領地と領民を新政府に「返納」させたこと。

この時、申し訳なさそうに、木戸孝允(桂小五郎)が敬親公にお願いに行くと、殿様は、所領を召し上げられることには何一つ文句を言わず、ただ一言

「もう、そちとは主従ではなくなるのか」と寂しそうな顔をして言ったそうです。

領地、どうこうではなく、信頼して可愛がっていた、木戸と、今後は、会う機会が少なくなるのが悲しかったのでしょう。

泣ける話ではありませんか。

 

対称的なのは薩摩です。

よく知られた話ですが、久光公は、「版籍奉還」を飲まされた後、ブチ切れた彼は、やけくそになって、藩が所有する花火を全て、その晩に、磯庭園から打ち上げて「臨時花火大会」でうっぷん払いしました。

「おのれ、吉之助(西郷)と一蔵(大久保)が儂を騙しおった(怒)(怒)(怒)」と言ったところでしょうが。

驚いたことに、久光公は、王政復古後、しばらくは、自分が「将軍」になれると思い込んでいたという話があります。

ということは、「討幕戦争」の許可を得るために騙した藩の高官がいるはずです。

私は、西郷や大久保ではなくて、両者のシンパだった筆頭家老の小松帯刀が怪しいと思っています。

この人は、当時の英国の公使館の通訳の、アーネスト・サトウによると「最も性格が良くて上品な人」だとありますが、肝付家から小松家に養子に行った人です。

ゲーム「信長の野望」をやった人は知っていると思いますが、戦国時代に、島津家と肝付家は、宿敵だった中で、最終的には、肝付家が降伏して、家臣となっています。

そういう因縁があったのではないかと言う私の推測です。

話しが「大脱線」しましたが、皇帝ナポレオン率いる「グランダルメ(大陸軍)」がオーストリア、イタリア、プロシアなどに攻め込むたびに、占領地に持ち込んだのは

  • 革命思想
  • 自由、平等、博愛の精神

です。

「伝染病」のように広がる「革命の輸出」にもっとも怯えたのが、反仏大同盟の君主国です。

従って「ウィーン体制」の真の狙いは

  • 勢力均衡(バランスオブパワー)
  • 外交交渉で戦争を回避する。
  • 「革命思想」の抑圧。

キモは「モザイクのように複雑に組み合わせた列国間の同盟」です。

各々の同盟が互いに牽制しあって、欧州大陸に戦争が起きにくくしたシステムです。

このメッテルニヒの「ウィーン体制」を研究し「安全保障体制」として、実際の外交に生かしたのが、ヘンリー・キッシンジャー博士です。

ヘンリー・キッシンジャー・・・・・Wikiより

http://archive.is/rOlSt

ハーバード大学院

1946年に復員し、ハーバード大学に入学。1950年、政治学の学士学位を取得し最優等で同大学を卒業する。引き続き同大学大学院に進学し、ウィリアム・ヤンデル・エリオット(英語版)の指導のもと19世紀のヨーロッパ外交史を研究し、1952年に修士学位を、1954年にはウィーン体制についての研究で博士学位を取得する[3]

この論文では、その後の100年間 欧州で大きな戦争が防がれた国際秩序がどのようにして作られたかが論じられている。その要因の一つとして、敗れたナポレオンのフランスに対して、メッテルニヒやカスルリーらが、懲罰よりも力の均衡の回復を重視したことを上げている。

それでは、命式を見てみましょう。

四柱推命鑑定命式 クレメンス・フォン・メッテルニヒ

宿曜経 室宿

年柱と月柱の巳が時柱の亥と二重に冲「ちゅう」を形成します。

その為に、2個の天乙貴人が死んでしまいました。

★従って、吉凶星には「血刃&駅馬」のペアが3組あるだけです。

貴人星や吉星がないので「血刃&駅馬」のペアが「ダークパワー」を発揮した時にそれを防ぐ力がありません。

まさに前の記事で紹介した「清原和博状態」です。

血刃&駅馬|清原和博

 

総合評価|命式の構造自体は「弱い」が情報収集能力に長けている。

日柱の天干は5月生まれの癸(水滴)です。

晩春で、気温が高くなっており、蒸発してしまうので月令は得ていません。

従って、命式の構造自体は弱いです。

ただ、偏官と食神がパワーラインを形成するので出世の原動力となります。

★また別の機会で、詳しく解説しますが、日柱の十二運が「墓」のタイプの性格の方は「現実」型と言って「情報収集能力」と「コモンセンス(常識)」に溢れています。

まさに、オーストリア宮廷の「外交担当高官」にはうってつけでした。

メッテルニヒの詳細な伝記や、回顧録を読んではいませんが、生涯、大きな事故や、病気になったという話は聞きません。

亡くなったのが1859年、明治維新が1868年ですから、日本の「王政復古」の十年前なんですね。

この頃の「交通事故」と言えば「馬車」に轢かれるぐらいでしょう。

ただメッテルニヒにも「ピンチ」は有りました。

1848年に「ウィーン体制」に抵抗するフランスの2月革命が起きました。

革命は1か月後にオーストリアのウィーンにも伝染します。

1848年3月13日、74歳のメッテルニヒは耐えられずにロンドンに亡命します。

大運を見ると

73歳~83歳

己酉―大運空亡―偏官―病・・・・「囚獄&白虎殺」が2組来ます。

73歳から大運空亡に入って、1年後に亡命に追い込まれたのですね。

1848年

戊申戊―空亡 正官 印綬・・・・劫殺2個

大運空亡に入った空亡年で「革命」と言う「外部勢力」からの攻撃が劫殺として現れました。

3月

乙卯乙 食神 食神・・・・「囚獄&白虎殺」が2組、血刃

「囚獄&白虎殺」のペアが2組の大運中に「囚獄&白虎殺」のペアが2組の月運が巡ってきました。もう「亡命」するしかないでしょう。

13日

癸丑己 比肩 偏官・・・・羊刃2個 血刃

メッテルニヒは「運」がよく、オーストリアに起きた革命も、7か月後には「反動勢力」によって鎮圧され、3年後には帰国を許されました。

そして、8年後に「失意」とはいえ、自宅で極楽大往生を遂げたのです。

 

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