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四柱推命・方合|西太后

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《「方合」が命式の四柱に組み込まれたら一体どういう人間になるのか》

そのサンプルとして、高校で世界史を選択したら、一回は授業で耳にするであろう歴史上の著名人の命式をご披露します。

その方の名は、かの有名な西太后です。

西太后・・・・・Wikiより

http://archive.is/Xp79J

清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人エホナラ氏の出身

あまりにも有名すぎる女性ですね。

中国の近代、衰退してゆく満州人王朝の「清朝」が、蝋燭が燃え尽きるときの、最後の瞬間の様に華々しく燃えた「最後の火」のような女帝でした。

命式を見てみましょう。

四柱推命鑑定命式 西太后

宿曜経  奎宿(けいしゅく)

日柱の天干は乙(草花)で11月末初冬の生まれですから月令は得ていません。

命式の構造自体は弱いです。

総合評価|命式の構造は弱くとも、四柱の地支に、亥―子―丑の方合(水=冬の方合)が組み込まれているので周囲を畏怖させる「超強力な人格」となる。

これに尽きるでしょう。

吉凶星も、天乙貴人、天徳貴人があり、他に凶星は有りません。

 

《西太后という「呼称」の由来》

「太后(たいごう)」を何故、東西に分けたか?

「東太后」・・・・正室だが男児を産めなかった皇后

「西太后」・・・・世継ぎの男子を産んだ側室。

西太后は、男子、後の同治帝を産みました。

呼称の区別は明朝以来の儒教の理論だそうです。

 

《西太后、「権力掌握」への道のり》

夫の咸豊帝(かんぽうてい)は、晩年、西太后とその取り巻きの廷臣一派を嫌い、自分の死後、彼女らを追放するように遺言していました。

しかし、遺言の内容を事前に知っていた西太后一派は、咸豊帝(かんぽうてい)が死去すると間髪入れずにクーデターを敢行し、「反対勢力」を粛清しました。

28歳の、1861年11月11日の時です。

行運(大運、年運、月運、日運、時運)は

23歳~33歳

庚寅―正官―帝旺

大運は「大願成就」の「正官」で十二運は最強の「帝旺」です。

1861年

辛酉辛 偏官 偏官

11月

己亥壬 偏財 印綬

11日

甲子癸 劫財 偏印

 

《凶星や印星が巡ってきても、「方合」の強化が凶意を抑え込んで陰謀を成就させた》

クーデターが決行された11月は「亥」の月、11日は「子」の日です。

この「亥」と「子」が命式中の亥―子―丑の「水方合」を1組から3組に倍増させるのです。

しかも、日柱の天干は「乙」で植物なので、水は多ければ多いほどパワーアップします。

表記しませんでしたが、羊刃や血刃などのお約束の凶星が巡ってきましたが「方合」の3倍速のパワーでかき消されてしまいました。

 

《遂に「キングメーカー」ならぬ「エンペラーメーカー」となる》

自分が生んだ子の同治帝が崩御すると、自分の妹の子、即ち甥を光緒帝として擁立します。

もう「やりたい放題」「好き放題」です。

39歳の1875年2月25日のことでした。行運(大運、年運、月運、日運、時運)を見ると

33歳~43歳

辛卯―偏官―建禄

大運の偏官は「多忙になる」の意味で、十二運の建禄は帝旺に次いで強いです。

1875年の年運は

1875年 乙亥壬 比肩 印綬

亥年なので、また亥―子―丑の「水方合」が2倍にパワーアップします。

これを、垂簾聴政(すいれんちょうせい)と言います。

垂簾聴政(すいれんちょうせい)とは・・・・・Wikiより

http://archive.is/RjIgA

皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと。

概要

中国で、女性である皇太后は、男性である朝臣と直接対面するのを避けるため、皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座って政務を行ったことより、このように呼ばれた。

「皇后・皇太后」といっても、幼帝である場合は皇后が聴政することは当然出来ないため、皇后の例は非常に少なく、また皇太后といっても日本の制度では太皇太后となる例や、先帝在位中は皇后でなかったが幼帝の生母であるため皇太后となった例もある。

朝鮮半島においては李氏朝鮮の時代に行われた。

有名な例としては、前漢の呂后、唐の武則天(最後は自ら皇帝となった)、清の西太后、李氏朝鮮の慈聖大妃や貞純王后などが挙げられる。また、1980年代には、総書記や党主席の経験のない鄧小平が総書記や首相を背後から操って最高実力者として君臨していたことを揶揄して「垂簾聴政」と呼ばれたことがあった。

 

 

《日清戦争で日本に負けたのがケチのつき始め》

59歳の時の1895年4月17日は、敗北した日清戦争の講和条約、下関条約の日でした。行運(大運、年運、月運、日運、時運)は

53歳~63歳

癸巳―偏印―沐浴

その前の大運が

43歳~53歳

壬辰―印綬―冠帯

で、運気は53歳でピークアウトしていました。

加えて、43歳から、63歳の20年間は、最初は、壬、次は癸で「水」の20年間でした。

ただでさえ、命式中に「水方合」があって、水が豊富なのに、大運にも「水」が巡ってきたら、日柱の天干の「乙」は草花ですから「根腐れ」してしまいます。

そして、敗戦の講和条約は、1895年が未年、4月が辰の月、25日が午の日で、今までの様に、亥、子、丑の援軍は来ませんでした。

その後は、日本に対する敗北を教訓にしようとした「戊戌の改革(ぼじゅつのかいかく;ぼじゅつとは干支の戊戌のこと)」をクーデターで潰したり、「排外勢力」の「義和団の乱」を本気で援助して、列強の軍隊に大敗して、最晩年に権威を失いました。

甥の光緒帝が死んだ同日に、有名なラストエンペラーの溥儀を皇帝にするように遺言して亡くなりましたが、死後3年して、清朝は、孫文らの辛亥革命(しんがいかくめい;かのといの年の意味)で滅亡しました。

★21世紀になっての研究で、光緒帝は西太后にヒ素で「毒殺」されていたことが検証されました。恐ろしいことです。

最後の日本代表の選手は、命式が西太后によく似た「ダブルフェラーリ」のもう一人の福岡堅樹(けんき)選手です。

 

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