≪ホーチミンルートとカンボジア、ラオスへの侵攻≫
書籍化されました
【ホーチミンルートとは】
ホーチミン・ルートは、ベトナム戦争時における北(ベトナム民主共和国)から中立国ラオス、カンボジア領内を通り南(ベトナム共和国)に至る
南ベトナム解放民族戦線への陸上兵站補給路を指す。
ベトナム戦争において、北ベトナム・南ベトナムを隔てていた北緯17度の非武装地帯は、非常に厳重な警戒元に置かれていたため、
北ベトナムが南ベトナム国内の反政府ゲリラ(ベトミン)へ非武装地帯を経由で支援を行うことは不可能だった。
そこで、トラックなどの車両が通れる道路から徒歩でしか通過できないような道までを使い、ラオス領、カンボジア領までをも通過しつつ物資、兵力の投入が行われた。直線距離は1400kmである。
ラオス領とカンボジア領内のルートに関しては、北ベトナムが勝手に使用しており、国境侵犯していたことになるが、両国はこれを黙認した。
ラオスでは、北ベトナムの影響を受けて共産主義化が急速に進んでいったためである(ラオス内戦)。
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≪カンボジア内戦≫
1968年にはアメリカ軍の空爆が始まり、1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク国王を追放し、クメール共和国を樹立した。
1970年のクメール共和国成立後、内戦は一層激化した。アメリカ軍による空爆がカンボジア全域に拡大され、数十万人が犠牲となると、
反米を掲げるクメール・ルージュ勢力の伸張を招いた。更に、ロン・ノル将軍によるクーデター後、北京に亡命していたシハヌーク元国王も
亡命先でカンプチア王国民族連合政府を樹立し、かつて敵対していたクメール・ルージュと共にロン・ノル政権を打倒する方針を打ち出していた。
ノロドム・シハヌーク
シハヌーク殿下の愛称で親しまれたカンボジア国王です。
いつも笑顔を絶やさず、国民から愛され、しかも、数度の亡命や命の危険にも晒されながら、89歳の天寿を全うした不死鳥の様な人でした。
私は、この国王が好きでした。何故かと言うと、日本が戦後、戦場になった東南アジア諸国に戦後賠償をしようとしたときに、一番先に手を挙げて「戦後賠償を放棄」してくれたのが彼です。
戦時中に日本がフランスの植民地だったインドシナ3国を開放し、独立を認めました。
ついでに、フランスの植民地化された時に、東部国境で、ベトナムに編入された地域をカンボジアに返還してあげたからです。
それでは、命式を見てみましょう。
四柱推命鑑定 命式 カンボジア国王・ノロドム・シハヌーク
1922年10月31日生まれ~2012年10月15日(89歳没)
・・・・上 中 下 宿命星 蔵干 十二運 吉凶星
年柱 壬 戌 戊 比肩 偏官 冠帯 華蓋
月柱 庚 戌 戊 偏印 偏官 冠帯
日柱 壬 申 庚 偏印 長生 駅馬
時柱 辛 丑 己 印綬 正官 印綬 衰 金輿禄
【戌亥空亡】戌のある年柱と月柱が空亡している。
【総合鑑定】波乱の人生を示す年柱と月柱の空亡と、それに耐え、89歳の天寿を全うした精神力の強さ。
独立宣言後、日本が撤退したため、フランスが戻ってきて、フランス連邦に組み入れられました。しかし、シハヌークは
国民を率いて、反仏闘争を行い、フランスに諦めさせて、撤退させました。
そのご、ベトナム戦争の余波で、米軍の空爆を受け、アメリカの傀儡、ロン・ノルらのクーデターで北京に亡命。
ベトナム戦争終結後に帰国するも、ポル・ポトに抑圧される。半端なストレスではなかったと思います。
≪印星殺の成立≫
印綬2個と偏印1個で印星殺の成立です。
47歳の1970年に、ロン・ノルらのクーデターで追放され亡命しました。
その時の大運は、43歳~53歳 乙卯―傷官―死で、けじめをつけられる傷官の厳しい10年でした。
クーデターの日の行運を見てみましょう。
70年 庚戌戊―空亡 偏印 偏官
03月 己卯乙 正官 傷官・・・白虎殺
18日 丁酉辛 正財 印綬・・・羊刃
1970年は、空亡の2年間の始まりでした。しかもお約束の偏印が巡ってきました。
3月は傷官の月運で、けじめをつけられる厳しい月でした。
18日は、羊刃が巡ってくるし、お約束の印綬も来ました。丁酉の酉と大運の卯が冲「ちゅう」を形成します。不吉な日でした。
癌治療の為、北京の病院に通っていましたが、心不全で病没しました。
薨去された日の行運を見てみましょう。
12年 壬辰戊 比肩 偏官
10月 庚戌戊―空亡 偏印 偏官・・・羊刃
15日 己酉辛 正官 印綬・・・血刃、羊刃
10月は空亡の月で、お約束の偏印が巡ってくるし、羊刃も現れます。
15日もお約束の印綬が巡ってくるし、病気の血刃と羊刃も現れました。