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≪テト攻勢≫
旧正月(テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したが、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否された北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。
南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵はわずか20人で「要塞」とも称された、サイゴン市のアメリカ合衆国大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土に生中継された。また、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ軍の放送局も占拠され爆破された。
サイゴン市内やダナン市内などの基地に急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態に陥ったものの、すぐに体勢を立て直し反撃を開始して、物量で圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢は失敗したと声明した。
しかし解放民族戦線側は6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、そして米軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。
後にこのテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍3,895人、南ベトナム軍兵4,900人、解放民族戦線5万8,373人であったとアメリカ軍は明らかにしている。
アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人であり、その30%余りをこのテト攻勢のわずかな期間に失ったこの事実はしばらくは明らかにされなかったが、このテト攻勢でジョンソン政権が受けたダメージは大きく、アメリカ国内でのベトナム戦争に対する見方が変わり、その後の行方に影響を与えた。
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戦闘で負け、政治で勝った北ベトナムとベトコン
奇襲による一斉大規模攻勢で、アメリカ軍と南ベトナム軍は、一時大混乱に陥りましたが、体勢を立て直し、圧倒的な物量で反撃し、北ベトナム軍を撃退し、ベトコンを壊滅状態に陥れました。
つまり、戦闘ではアメリカ軍は勝ったのですが、TVの時代、共産軍の奇襲に緒戦で苦戦するアメリカ軍の様子や、アメリカ大使館を占拠し、屋上で北ベトナムの旗を振るベトコンの姿を映像で見た、アメリカ国民は、「この戦争は本当に勝っているのだろうか?一体いつ終わるのだろうか?」とベトナム戦争とジョンソン政権に不信を抱くようになります。
そして、かねてから、国内でうごめいていた「反戦運動」に油を注ぐ形になりました。
要するに、北ベトナムとベトコンは、TV映像でアピールすることにより、継戦か反戦か、アメリカ国内の世論を2分することに成功しました。
これ以降、アメリカ政府は、北ベトナム軍とベトコン、アメリカの国内世論の二つの勢力と戦わなければならなくなり、ジョンソン政権は一気にレームダック化(死に体)しました。共産勢力の見事な「メディア戦略」の大成功でした。
「テト攻勢」がベトナム戦争の分岐点でした。これ以降、ジョンソンの後任のニクソンも含め、「ベトナムの泥沼」からアメリカ軍が脱出し、総撤退する方向を目指し始めます。
≪リンドン・ジョンソン大統領とは一体何者だったのか?≫
軽く190cmは越すであろう長身と、強面。
私は、この人の生前の写真を見るたびに、自民党のドンと言われた故金丸信と共通したオーラを感じます。
共通点は、二人とも教師出身。学歴エリートではない。政策や演説よりも、党内や議会の「根回し」に長ける「調整型の政治家」。
経歴を調べると、ジョンソンも、「法案を通す魔術師」と言われました。ただ、外交力や、先見性、戦争指導者としての資質にはかけていたのではなかったか、と思います。
それが証拠に、前任のケネディが、ベトナム戦争を遂行するために集めた頭脳集団、マクナマラやバンディら全員を自分が大統領になっても留任させました。
1980年代の「ケネディ一族礼賛」の時代の本では、知性豊かで上品なケネディ兄弟と大局的に教養にかけ、野卑なテキサス男、ジョンソンとして描かれています。
鹿狩りを好み、「動物を殺せない奴は男じゃない」と言った暴言まで出てきます。今となっては、ケネディ兄弟が上品であったかは疑問ですが、ジョンソン評は不動だと思います。
それでは、命式を見てみましょう。
リンドン・ジョンソン大統領
1908年8月27日生まれ~1973年1月22日(64歳没)
・・・上 中 下 宿命星 蔵干 十二運 吉凶星
年柱 戊 申 庚 偏財 偏官 偏印 絶 血刃&駅馬
月柱 庚 申 庚 偏官 偏官 偏印 絶 血刃&駅馬
日柱 甲 寅 甲 比肩 食神 建禄 血刃&駅馬
時柱 戊 辰 戊 偏財 偏財 印綬 衰 金輿禄 華蓋
【子丑空亡】
【総合鑑定】大統領の器ではない。副大統領が限界。国が傾くときは、運の悪い人間がトップになる。
十二運を見ると、絶、絶、建禄、衰、絶が2個もあります。辛めに見て身弱でしょう。
月令を見ると、8月末生まれの甲(杉の大木)です。甲は春が旬なので月令を得ていません。
特筆すべきは、「血刃&駅馬」のペアが3組もあります。2組以上あると例外は有りますが、早逝する人を散見します。
大統領を辞めて5年で死んじゃいました。ガタイがでかくて頑丈そうですが、元々、心臓系の疾患を持っていたのかもしれません。
彼の大統領声明に終止符を打った「テト攻勢」の日の行運を見てみましょう。
・68年 丁未己 傷官 正財
・01月 癸丑己―空亡 印綬 正財
・30日 己亥壬 正財 偏印
1968年の節分(2月3日)前は、前年の未年で、けじめをつけられる傷官の年運でした。
1月は空亡の月運で、お約束の印綬が巡ってきます。
30日もお約束の偏印が巡ってきました。この時点で、ジョンソンの再選の芽は無くなりました。
★そして、同年3月16日、ロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明します。
ケネディ兄弟のカリスマ的人気には敵わないと思ったジョンソンは、半月後の3月31日に、大統領の再指名を受けないことを表明します。
その日の行運を見てみましょう。
68年 戊申庚 偏財 偏官
03月 乙卯乙 劫財 劫財
31日 庚子癸―空亡 偏財 印綬
1968年は申年ですが、この申が命式の寅と冲「ちゅう」を形成します。不吉です。
31日は空亡で、しかも、お約束の印綬が巡ってきました。
死亡したのは64歳でしたが、その時の大運は
64歳~74歳 丁卯―傷官―帝旺で、けじめをつけられる傷官の大運でした。
死亡日の行運を見てみましょう。
73年 壬子癸―空亡 偏印 印綬
01月 癸丑己―空亡 印綬 正財
22日 戊午丁 偏財 傷官
1973年の節分前は空亡の年です。お約束の偏印と印綬が巡ってきました。
1月も空亡月でお約束の印綬が巡ってきます。
22日は、けじめをつけられる傷官の日運でした。
ジョンソンの死後、ケネディ暗殺の黒幕はジョンソンだという説が定着しました。
もしかして、殺したケネディが「もういい加減にこっちにこい」とあの世に連れて行ったのかもしれません。