無限拡散|井沢満(96)アメリカ大使館に関するウソ

95からの続きです。

《時代設定は正しいか?アーミン・マイヤー大使とは》

アーミン・マイヤー

https://web.archive.org/web/20181031110115/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC

アメリカ合衆国の外交官。国務次官補代理、駐レバノン大使、駐イラン大使などを歴任したのち、1969年から1972年にかけて駐日大使をつとめた。

経歴・人物

アメリカ合衆国インディアナ州フォートウェイン生まれ。1933年にイリノイ州のリンカーン短期大学で準学士号を取得。1935年と1939年にオハイオ州のキャピタル大学で学士号を取得。1941年にオハイオ州立大学で数学の修士号を取得。

1943年連邦政府政治情報局に入り、のち国務省に転じる。そのキャリアにおいて一貫して中東の専門家として働き、イラン、エジプト、レバノン、イラクなどに在勤したのちに国務省中近東局次長、中近東局長、国務次官補代理(近東・南アジア担当)などを歴任した。その後、レバノン、イランの大使を務めた。

折しも駐日大使のポストが、沖縄返還問題、日米安保条約の更新問題、繊維に代表される日米貿易摩擦などの難題をかかえており選考が難航していた。そのため、あたかも「瓢箪から駒」のように、中東専門家のマイヤーが駐日大使に任命されたのである。新駐日大使マイヤーの名を聞いて日本政府筋は「なじみが薄く予想外の人事」と異例のコメントを出し、朝日新聞記者に「新大使の駐日大使としての適格性は?」と訊かれた国務省筋の人物がしばらく絶句したという。

在任中は沖縄・安保・貿易摩擦のほか二度にわたる「ニクソン・ショック」など、まれに見る多事多難な時期であった。ニクソンとキッシンジャーは概して密使・密約を多用し、しばしばマイヤーは頭越しにされる傾向があった。

以上

 

 

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戦後の歴代、駐日アメリカ大使の顔ぶれを見ると

https://web.archive.org/web/20180828134313/https://jp.usembassy.gov/ja/our-relationship-ja/former-ambassadors-ja/

直近から、日本で名前が売れた人をあげると

キャロライン・ケネディ

ウォルター・モンデール

マイケル・アマコスト

マイケル・マンスフィールド

エドウィン・ライシャワーぐらいでしょうか?

ケネディ王朝のアイコンだったキャロラインは別格として、私の祖父母も知っていたのは、ライシャワー大使でした。

奥さんが、明治の元勲、薩摩の松方正義の孫ということで人気がありました。

エドウィン・オールドファザー・ライシャワー

https://web.archive.org/web/20181203180939/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BBO%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BC

(英語: Edwin Oldfather Reischauer, 1910年10月15日 – 1990年9月1日)は、アメリカ合衆国の東洋史研究者である。ハーバード大学教授

1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)までハーバード燕京研究所所長、1961年(昭和36年)から1966年(昭和41年)まで、駐日アメリカ合衆国大使を務めた。

大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として歴史に限らず日本研究を推し進め、後進の指導にも尽力した。その功績から同研究所は1985年(昭和60年)にライシャワー日本研究所と改称されている。

以上

エドウィン・ライシャワー大使について、ご参考までに

 

《アーミン・マイヤー大使は、戦後の日米外交史で最も影の薄い大使》

在任したのが1969年(昭和44年)~1972年(昭和47年)

安倍総理の大叔父で、戦後最長政権を築いた佐藤栄作首相が、4選目に入り、日米安保条約の更新と、沖縄返還に向けて、脂が乗り切り、政権は非常に安定していました。

また、当時のアメリカ大統領のニクソンは、キッシンジャーを縦横に使い、外務省を通さず、佐藤―ニクソンの「差しのトップ外交」を繰り広げたので、駐日アメリカ大使は「飾り物」に過ぎませんでした。

★恐らく、このマイヤーという大使について詳しく知っている人は、国際政治学者で、「日米外交史」の専門家ぐらいでしょう。

Wikiにあるように、大使として、さしたる実績も残していません。

★著作は有るにはあるが・・・・・・

東京回想 (1976年) - – 古書, 1976

アーミン・H.マイヤー (著), 浅尾 道子 (翻訳)

以上

「古書」です。この一冊だけ。レビューすら書かれていません。

専門家でも、この人を研究する人は正直言って少ないと思います。

《マイヤー大使が赴任した1969年の重要事件、「東大安田講堂事件」》

https://web.archive.org/web/20181203184809/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%AC%9B%E5%A0%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。

以上

記録映像の動画もどうぞ。

私は、この当時小学校低学年でしたが、テレビのニュースを口をあんぐり開けてみていました。正直言って、安田講堂に立てこもる学生さんが、善良な人々には見えませんでした。

余談ですが、この時、安田講堂に立てこもった学生の中で、近所のお兄ちゃんがいました。当時東大の理学部の化学専攻の学生でした。彼は、安田講堂落城時に、警察に逮捕され、公安のブラックリストに載ったにも拘らず、協和発酵という一流企業に就職し、役員にまで出世しました。

ただ、後に、彼に聞くと、一緒に安田講堂に籠城していた明治大学や法政大学の人は就職口が無かったそうです。

 

《全共闘の学生運動は反体制運動であり反米闘争であった》

マイア―大使が、日本にいた1969年~1972年は、1945年生まれのイザーマンが、24歳~28歳の頃です。

★この頃は既に、大分県立大分舞鶴高校卒業で早稲田大学仏文科在学中の「土台人」の○○満氏に「背乗り完了」していました。

業界で認知されるのが、天才脚本家の向田邦子が台湾で航空機事故で亡くなった翌年の1982年ですから、未だ「10年間の疑惑のブランク期間」があります。恐らく、新宿二丁目で春でも売っていたのでしょう。

「背乗り完了後」の得体のしれない早稲田中退のイザーマンが、アメリカ大使館に公式に招待されるはずが有りません。

しかも、あたかもなじみの喫茶店に立ち寄るように2度以上立ち寄っている模様。一発で「嘘話」だとわかる「下手くそな台本」です。

★この年まで、世間を震撼させた「東大安田講堂事件」は、安田講堂が機動隊に鎮圧された後、燎原の火の如く、全国の大学に「大学紛争」として広がっています。

 

《アメリカ大使館から、公式に招待される理由が皆無(爆)》

縁故;父親が「親米の大物フィクサー」か政治家、財界人、外交評論家

これなら、「学歴詐称」でも可能性があります。

関東学院卒でも、親父のコネで小泉進次郎が招待されることはあるでしょう。

ちなみに、小泉進次郎はアメリカのコロンビア大学留学となっていますが、2chによると、自動車による人身事故のもみ消しで留学したと地元民らしき人が書き込んでいます。

親に学歴は無くとも、かつての児玉誉士夫のような「大物フィクサー」でかつCIAのエージェントなら、招待される可能性があります。

イザーマンは、「本人のキャラ設定」が「私生児」で「実父が破産者」なので上記のどの条件にも該当しません。

「背乗り」した○○満氏なら、かろうじて英会話力で、大使館員と友人になることはできたでしょうが、現在のイザーマンの英語力は、日本の中等教育を未終了のレベルなので絶対に不可能です。

ましてや、中国人民解放軍の中国朝鮮族の工作員なので、侵入を試みても、正体がばれた時点でアウトです。

次号へ続きます。

 

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