閑話休題|新元号「令和」に関する見解③元号とは何か?

新元号「令和」に関する見解③元号とは何か?

さて、「NHK問題」に関する私なりの結論を導き出してやっと「新元号」の話に入ります。

読者の皆様が、わざわざ時間を割いて読んでいただける記事にするのに結構苦労しました。

私は「漢学者」ではないので。

先ず、「元号」本来の意義から遡ってみましょう。

私の勉強もかねて、お時間のある方はお付き合いください。

 元号とは・・・Wikiより

https://web.archive.org/web/20190402054339/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7

日本を含むアジア東部における紀年法の一種。

特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。

公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった[1]。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。

 

一世一元の制とは・・・Wikiより

https://web.archive.org/web/20161228013621/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B8%96%E4%B8%80%E5%85%83%E3%81%AE%E5%88%B6

元号を君主(皇帝、天皇、国王)の在位中には変えない制度をいう。

中国

大明太祖皇帝

1368年、紅巾軍の首領・朱元璋が南京で即位して明朝を樹立し、この年を「洪武元年」とした時に一世一元の制を採用した。明朝成立前の時代は、人心の一新を目的とする改元もしばしば行われていた。明の次の王朝である清朝も、明朝の一世一元の制を継承した。但し、明朝と清朝は、君主が交代してもすぐには改元せず、君主が交代した年の翌年元日から新元号が適用される「越年改元」が普通であった。

なお清の冊封国(さくふうこく)であったベトナムでは、1802年に阮朝が建てられるとともに一世一元の制が行なわれた。

日本

日本で一世一元の制が実施された時期は、明治維新に当たる1868年の慶応から明治への改元からであり、それ以前は天皇の在位中にも災害など様々な理由によりしばしば改元が行なわれていた。また、寛永や慶長のように、新たな天皇が即位しても、元号が変わらない場合もあった。

明治政府は、慶応4年を改めて「明治元年」とするとともに、一世一元の詔で天皇一代につき一元号とする一世一元の制を定めた。日本の場合、明朝や清朝とは異なり、君主が交代した日にすぐ新元号を適用する「即日改元」が実施された。

第二次世界大戦後に制定された日本国憲法、1947年(昭和22年)施行の皇室典範では元号の規定が明記されず、同年5月3日を以って元号の法的根拠は消失した。その後も元号は慣例として用いられていたが、昭和天皇の高齢化に伴い、元号法制化を求める声が高まったのを受け、1979年(昭和54年)6月6日には元号法が成立した。昭和天皇崩御を受けて、「平成」の元号が定められ、一世一元が継続されている。

朝鮮

朝鮮で一世一元の制を実施した時期は、李氏朝鮮末期である。

政府は、1895年(開国504年)11月15日の詔勅を発布し、翌1896年に太陽暦とともに建陽の元号を建て、当制度を採用した。さらに翌年の1897年には国号を大韓帝国と改めると共に元号も光武と改め、以後は1910年の併合により大韓帝国が消滅するまで一世一元が続いた。

 

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《元号とは何か?私的見解》

★古代以来、東アジアの国際秩序の基本となった「中華王朝」中心の「冊封(さくほう)体制」の名残。

「冊封(さくほう)体制」とは・・・Wikiよ 

https://web.archive.org/web/20190404072717/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81%E5%9B%BD

・・・・・「冊封国」より、参照

古来、中国王朝はその国力と中華思想を背景に近隣諸国との外交関係樹立においては臣下の礼を求め、見返りに交易や対外的な権威を認めた。これが中国王朝を中心とした東アジアにおける中華秩序、冊封体制である。

実際に中国王朝に対し冊封国がどのような義務を負っていたかは一律ではなく、個別の事情により異なるが、一般には形式的なものであり、西洋における植民地のように内政や外交に干渉されるものではなかった。

実態をざっくりいうと、古代より中国と国境を接する異民族国家、例えば、朝鮮やベトナムが、王朝が変わるたびに、「使者」を北京や南京に送り、御挨拶をする代わりに、自ら(朝鮮王やベトナム王)の「支配権」を公認してもらう(お墨付きをもらう)という慣習でした。

「冊封国」とはほぼ中国の「属国」に等しい地位です。

ですから、「冊封」を受けた国は、「皇帝」を名乗れません。

歴代の朝鮮王朝やベトナム王朝は皆、「国王」です。

それに対して、中国と国境を接せず、海を隔てた日本は、聖徳太子以来、「冊封」を拒否して、外交的にも中国の王朝と対等の立場を取り、「天皇」を名乗っていました。

有名な、聖徳太子が隋の煬帝に出した「国書」に明らかに表れています。

 

《中華文明の「良いとこ取り」に成功した日本》

隋以来、中国の王朝と常に対等の立場を取り続けた、わが日本ですが、ちゃっかりと「中華文明」の良いところだけは、取り入れて、日本の国情に合うように改良して取り入れています。

これを日本民族の特技の「同化吸収力」と言います。

中国の優れた「文物」を取り入れたのは、日本史で習う遣隋使や遣唐使の人たちの命がけの努力の結果です。

この流れで「元号制度(明治までは「年号」」というシステムも日本にとりいれられました。

 

《「儒教」の「毒」の部分を上手に除去して受け入れた日本人の賢明さ》

 ★「儒教」が宗教として、「社会の根本的体質」となった地域の「近代化」は極めて難しい。

 

《「自由主義」の反対語は何だろうか?》

正解は「伝統主義」です。「保守主義」ではありません。

伝統主義とは・・・・・

https://web.archive.org/web/20190404092537/https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9-102619

古い慣習や組織を尊重し,その更新を嫌う人間の心理的態度,または社会的傾向のこと。継承された生活様式の更新によって自己に不利益なことになるのではないかという呪術的な不安から生じる形式的反応行為で,あらゆる進歩的な考えや改革案,近代化に反対する。伝統主義は古いものに固執しようとする人間の自然的心理の傾向をいうのであって,社会的立場としての意味からは保守主義と概念的に区別される。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について

儒教」から一足飛びに「伝統主義」にとんで驚いた方もいるかもしれませんが、

この「伝統主義」がキモなのです。

高校の「漢文」で「孔子曰く・・・・」で散々教わった「聖人君子」の孔子様ですが、彼は「儒教」の「教義」「体系」を作る時にそのシステムに、大きな「致命的な欠陥」を組み込んでしまったのです。

それは、中国の儒教が、朝鮮半島に受け入れられたときに「儒教の毒」として、極端に表れたのです。

朝鮮の儒教とは・・・Wikiより

https://web.archive.org/web/20190404093959/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E5%84%92%E6%95%99

朝鮮半島で発達した儒教の形である。

朝鮮の精神史に於いて最も重要な影響は、中国からの文化的影響の一部としての儒教思想の導入だった。今日、儒教の遺産は、朝鮮半島の社会の根底部分、道徳体系、生活様式、年長者と若年層との関係、に残っており、大部分の法体系の基礎をなしている。

朝鮮の儒教は、内戦や高麗とそれ以前から受け継がれていた内部の異議のない、国家統合の実践的な方法だと、時々考えられる。

★無駄に500年間も続いた李氏朝鮮では「儒教」は「国教」となり、更に、全ての「道徳規範」「法体系」も支配したのです。

儒教による弊害

儒教では年齢・性別・階級による対応の差もあり、これにおいて李氏朝鮮では差別的な解釈が最も顕著な形で表れた。 通常地位が高いと徳の高い者とされ上位者には逆らってはいけず封建社会でもあった為、官職や貴族位の者はそれ以下の賤民・奴婢を自由に使い、その財産を強制的に接収等しても位が高いため庶民は訴えを起こせず搾取され続けるに甘んじる他なかった。 又、犯罪においては罪を犯した者は極悪人であり特に横暴な両班が罪により身分を剥奪されれば一斉に人々の憎悪の対象とされる、それ以外の者も殺人など重犯罪であれば酷い死か一生罪人の汚名を負い又は償い続けながら生きねばならず、それを避けるため自らの罪を認めることを頑なに拒む事になる。

また発覚後のリスクが高いといえど犯罪が少ないわけではなく、窃盗等は非常に多くそれ故か罰も重く刑罰の目標は死に至らしめる事でもあった。

孔子が儒教を体系化した当時から女性に対しては男尊女卑と取れる部分もあり朝鮮儒教はこれが極めて顕著であり、結婚しても夫婦は同じ血族では無いことから別姓であり、娘が生まれ嫁いでも家の姓は子孫に残らない等封建主義の体制の為男尊女卑に傾いてしまう。

 

儒教的習慣による問題

現代朝鮮では、李朝時代に固まった朝鮮儒教により目上の者には絶対服従であり、たとえ間違っていたとしても、それを指摘して恥をかかせるような事は出来ない。

地位の高い者が下の者を酷使するのは、大韓航空副社長の趙顕娥が起こしたナッツリターンや水かけ事件がその顕著な例である。

また彼女らが批判を集めたのは、激昂ぶりもさることながら、その責任を他者へ転嫁し、自らの罪を認めなかった事でもある。これは、立場が上の者が間違っているというのは都合が悪く、また罪を認めれば犯罪者となり、不名誉な人生を送る事が確定しているからで、これは韓国の歴代大統領が、在任中の功績も無視され、いくつかの罪で逮捕される事にも見て取れ、それを恐れるあまり、国外逃亡や自殺を図る結果につながる。

女性が虐げられる事も未だ多く、嫁が姑にご機嫌伺いを毎日するのが慣習であり、夫とも姓の違いから阻害感を覚えることもある。韓国人特有の精神疾患火病が女性に多いのも、社会で冷遇されている為と考えられている。

儒教においては、富める者は貧しい者を助けねばならないとするが、それにより貧しい者は施しを受けるのが当然と考えるようになり、勤勉に働き稼ぐ事に消極的だった朝鮮では、他者から得られるだけの財を獲得する事が多く選択されたため、その習慣が今も僅かながら伺える。

引用が長くなりましたが

「儒教の毒」=「伝統主義の弊害」が、日本からの経済援助を受けて先進国OECDの仲間入りをした現代の韓国でも根深く残っています。

★「目上の者には絶対服従であり、たとえ間違っていたとしても、それを指摘して恥をかかせるような事は出来ない。」・・・・・・これは、「先輩」や「先達」がやったことややり方を「批判」してもいけないということです。 

「社会の発展」「科学の進歩」の為に、新しいやり方を提言したくても、先人の間違いを否定することになるからできないというのが「韓国社会の体質」です。

続きます。

 

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