日産との比較
戦後の日本の経済成長を支えた労使協調路線
戦後の日本では主に自動車産業で激しい労働運動、ストライキが頻発しました。
そこで日産自動車の川又克二と言う社長は組合を分断(組合に内通者を作った)して経営者に協調的な組合を作らせました。
画像は川又克二(1905~1986)。茨城県出身。東京商大(現一橋大)卒後日本興業銀行に入行、上司と衝突を繰り返し、冷や飯を食わされて40代で労働争議で倒産寸前の日産自動車に片道出向させられる。
第二組合を結成させ、戦闘的な労組を分断し、日産争議を鎮圧して生産と経営を安定させた。

戦後日本の労使関係の保守本流「日産川又モデル」
戦後の組合闘争に苦しんでいた大企業は続々と日産の「川又モデル」を真似して社内に導入し「第二組合」を作り労働争議を収拾した。
基幹製造業での「労使関係の安定」は生産と経営の安定をもたらし日本経済は世界を驚かす「高度経済成長」へとテイクオフした。
川又自身は社内の絶対君主として君臨したが晩年は孤独だった。
このように、日産自動車の社史は、経営危機→立て直しのヒーロー登場→独裁と腐敗→失脚のパターンを「会社のDNA」として繰り返すことになる。
それが21世紀になって起きたのが「カルロスゴーン事件」
画像はカルロスゴーン被告

この様に、日産は技術力、デザイン力でトヨタを常に上回るが
画像は日産フェアレディZ

「社内政治の不安定」と販売力の弱さで、常にトヨタの後塵を拝するようになった。
当時はどの企業でも「第二組合」と呼ばれました。
第二組合は経営陣と協定を結びました
①ストライキはやらない。その代わり
②雇用は守る;簡単に解雇しない
③毎年賃上げする(定昇+会社の業績の伸び+物価上昇分)
④社会保障費の半額分担補助・・・健康保険料の会社半額負担、厚生年金保険料の半額負担等
⑤諸手当(住宅手当、家族手当等)を厚くする。など、
これで製造現場がスムーズに動くようになり、「生産性」が急上昇、安定して日本経済は成長したのです。この第二組合がその後主流になりました。
経営側とべったりの「御用組合」と言う陰口も叩かれましたが。
戦後の日本の高度経済成長の「勝利の方程式」の重要なファクターの一つが「安定した労使関係」で
①労使協調路線
②企業別組合
です。
この「安定した労使関係」はアメリカやイギリスではそこまで発展しませんでした。
①妥協のない労使全面闘争路線・・・常態化するストライキ、工場のロックアウト等
②同種産業別の横断的労組
から脱却できなかったのです。