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≪ベトナム戦争前史としての対仏インドシナ独立戦争≫
未だ日米開戦の前の、1941年に8月に、日本軍が仏印(仏領インドシナ)に進駐しました。
目的は、日中戦争中でしたから、重慶に立て籠もる蒋介石を米英が援助する「援蒋ルート」を断ち切る事でした。
フランスは既にドイツに降伏し、親独的なヴィシー政権ができていましたから、ベトナム進駐の植民地フランス軍は大人しいものでした。フランスの圧政に苦しむベトナム国民は日本軍の事を「救国の神兵」と歓迎しました。
1944年8月に、大本営は、ベトナムに独立を付与しました。しかし、1945年8月日本はポツダム宣言を受諾して敗戦。
その時に、「ベトナム民族の父」のホーチミンは、8月革命を起こして、フランス植民地からの解放、民族の独立を宣言します。
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≪ベトナム残留日本兵の貢献≫
インドシナ駐屯軍参謀の井川省氏以下、約600名が、帰国を拒否し、ホーチミンや司令官、ボーグェンザップらの「ベトミン」に協力するために残留しました。
井川参謀は、部下に「日本軍の武器庫を開けろ。ベトミンに渡すんだ」と指示しました。
ホーチミンが、軍官学校を創設すると、部下とともに教官となり、ベトミンに「近代戦」の戦い方を教えました。銃の扱い方から始まり、塹壕の掘り方まで、また日本軍の「歩兵操典(歩兵マニュアル)」を、フランス語に翻訳して、教育しました。
第二次大戦が終わると、フランス軍がまたインドシナを植民地化しようと戻ってきました。
そこで、ベトミンとフランス軍の「対仏インドシナ独立戦争」が始まります。残留日本兵は、ベトミンとともに、フランス軍と戦います。
中原光信氏は、ボー・グェン・ザップ将軍の顧問に成り、多くの作戦を企画したそうです。
また、彼らは、ベトミンに「ゲリラ戦」のやり方も指導しました。1968年の「テト攻勢」で、ベトコン(南ベトナム解放戦線)は、トラックで、サイゴンのアメリカ大使館に突っ込んで、大使館の屋上に北ベトナム国旗を掲げました。
トラックが、玄関に突っ込む瞬間に飛び降りるのですが、そのやりかたも、日本兵の教官が教えたそうです。
最終的に北ベトナム軍は、1954年5月7日、ディエンビエンフーの戦いで、フランス軍を降伏させ、対仏独立戦争に勝利しました。
≪ベトナム建国の父、ホーチミンとは≫
鄧小平など、アジアの共産主義者によく見られるように、若い時は、宗主国のフランスに渡り、欧州各国を旅して、見分を広めています。
大戦中、日本軍がベトナムに進駐すると、急いで帰国して、国内で活動を始めました。
彼は、思想的には共産主義者でしたが、「最終目標」は、民族自決、祖国の独立でした。
それでは、ホー・チ・ミンの命式を見てみましょう。
四柱推命鑑定 ホー・チ・ミン
1890年5月19日生まれ~1969年9月2日(79歳没)
・・・上 中 下 宿命星 十二運 吉凶星
年柱 庚 寅 甲 比肩 偏財 絶 月徳貴人 駅馬 孤辰
月柱 辛 巳 丙 劫財 偏官 長生 天徳貴人 暗禄 劫殺 孤辰 亡神
日柱 庚 子 癸 傷官 死 月徳貴人 囚獄 白虎殺
時柱 乙 酉 辛 正財 劫財 帝旺 天徳貴人 羊刃 咸池
【辰巳空亡】月柱が空亡している。
【総合鑑定】意外や、凄い命式
月柱が空亡していますが、空亡している柱の十二運が、帝旺か長生の時は「異常な出世」をします。彼の場合、長生なのでドンピシャです。
それで、「建国の父」になったのでしょう。天徳貴人が1個、月徳貴人が2個有ります。
天徳貴人と月徳貴人のペアが2組できるわけで、天乙貴人2個に相当します。
囚獄が有るのは、中国に潜入したときに、中国国民党から、共産主義者として、拘束された過去が有ります。
容貌も如何にも、ベトナムの仙人と言う感じですが、ディエンビエンフーの戦いに勝った時に、フランス大統領のド・ゴールから脅されても同時ませんでした。
柔軟な容貌に反して、肝っ玉が据わっています。惜しくも、祖国統一の前の1969年に亡くなりましたが、前年の1968年の「テト攻勢」で勝利の分岐点が、北ベトナム側になったので、将来を安堵して亡くなったのではないでしょうか?
次号へ続きます。