《イザーマン、都合の悪い事実は正直に書くが、「嘘」はすぐに見破られる(爆)》
さあ!読者の皆さん「イザーマンタコ殴り大会」の始まりです。入場料、参加料無料です。先ず簡単な「嘘」から
《幼児の頃、「花柳流」の日舞を習っていたという「謎」》
2015年11月20日の記事
母の趣味で6歳の6月6日から花柳流日舞を習っていたことがあります。
どのくらい続けていたのか、稽古終わりに「お師匠様、ありがとうございました」と挨拶したことを、床についた両手の感触まで鮮明に記憶しています。
体に芯が通るのは、武道の他には日舞か能、仕舞、狂言であろうかと
思われます。日舞は父が嫌い止めさせられ、仕舞なら許すということでしたがあいにく地方のその時代、仕舞を教授するところなどあるはずもなく、早い時期に日舞を退かされたことが残念です。
日舞そのものをやりたかったということでもないのですが、身体に腰が定まっていないのが、日本人として生まれたのに、無念です。花柳流の舞扇を幼い手に持っていた者としては、この度の跡目問題は、さほど遠い世界のことのようにも思えません。身体は踏んでいた六方を微かに記憶しています。
初めは、手練(てだれ)の老齢花柳寛氏より若手花柳貴彦氏の言い分に与していたのですが、よく話を聞くうち、どちらがどちらか解らなくなりました。
双方、首を傾げる点はあります。貴彦氏のほうが、もし流儀にはない舞をなさっていらっしゃるとすれば修行浅い身で言語道断だと思われるし、寛氏のほうは家元の血脈制度を批判なさったにもかかわらず、次の後継者として、実力も人格のほどもまだ定まらぬ二十歳台のお孫さんを指名なさったことには、説得力がありません。
正確な事情を知らぬ門外漢が勝手に思うこと、意見をお持ちの方がいらしたらお聞かせください。
以上
当時の「ワイドショー」の話題の「花柳流の跡目争い」を見て、早速ネットで、聞きかじった知識をさも自慢たらしく披露しています。
「母の趣味で6歳の6月6日から花柳流日舞を習っていたことがあります。」
★6歳の頃は、イザーマンのキャラ設定だと、大分県の別府市にいた設定となっています。
それで、ネットで検索できる、別府市と大分市の全ての、「花柳流」の教室に片っ端から、電話をかけて確認した。最後に90歳の現地では、総本家に当たるお師匠さんが、お弟子さんと一緒に、昭和25年前後の、生徒の名簿をひっくり返して、調べてくれた結論が
「井沢満、若しくは井澤満、旧姓松尾満に該当する氏名は確認できないとのことだった」
グーグルで確認できるイザーマンの画像を全部見ても、舞扇を持って踊っている写真は無いではないか(笑)
しかも、着物は朝鮮テイストの「だらしなく崩れた着付け」、「体に芯が通る」が笑っちゃいますよ。
《イザーマンブログの「和装カテゴリー」の掲載写真は何故いつもソフトフォーカスなのか(爆)》
「あるものの病的な依存症」で肌が写せないほど荒れているのではなかろうか?小和田雅子を笑えないぜ(爆)
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《駐日アメリカ大使館の思い出の大嘘》
2018年1月5日の記事
アメリカ大使館邸に行ったことがあります。
アーミン・マイヤー駐日アメリカ合衆国大使 の時代だから、大昔のこと。
門には立派な門松が飾られ、そこで皇后陛下のご母堂でいらっしゃる正田冨美さんをお見かけしたのでした。今思えば遠慮せずお話させていただいていたら、相当強い思い出になったろうと思われます。色んな意味で。
大使夫人から私はこんな質問を受けました。
「玄関の門松はいつ片付ければよろしいの」と。
松の内に該当する英語を私は思いつかず、単に「通常は、7日まで飾っておきます」
と答えたのでした。
関西では15日までのところもある、ということは当時の私は知りませんでした。
もう大昔のことで時効でしょうから・・・・大使夫人は暮に松下幸之助さんから
来たというお歳暮について、私に愚痴ったのです。
「あんな大リッチマンが、バンブーの根っこなんかよこしたのよ」と。
私は、そこでいやそれが日本の風情と慎み、「粋」というものなのだ、と説明できるほどの英語力もなく、何か半端な返しをしたように思います。
おそらく、タケノコもそこらのものではなくたとえば京都のどこそこの、というたぐいのものであったのでしょう。
大使館邸では別の日、私は好奇心で庭園に出たのです。夜でした。
明かりが少なく、暗かったのを覚えています。すると人影があり、いきなり走り始めました。横顔を見ると、アーミン・マイヤー大使です。暗いところに人影(私)がいきなり現れたので暴漢かと思い、逃げられたのでしょう。
「大使!」と呼びかけ、慌てた私が何をその時拙い英語で言ったのかは忘れましたが、大使は照れくさそうに、走るのを止めたのでしたが大使館邸周辺には機動隊がいて、大変だなぁ、と思ったのでした。
松の内で、そんな昔のことを思い出しました。
安倍総理の母方祖父でいらっしゃる岸信介さんをお見かけしたのも大使館邸です。
コーヒーの角砂糖を、トングを使わず指でつまんで入れていらっしゃったのが印象に残っています。
岸信介という政治家に関し私に知識があれば、そういう細かい仕草も分析の役立つのかもしれませんが、あいにく不勉強です。以上
《結論「3流脚本家」の典型的な「失敗台本」(爆)》
「アメリカ大使館邸に行ったことがあります。」
「行ったことがあります」って厳密にどういう意味だろう(笑)
考えるのは、
①正式に招待された
②自分から勝手に訪問した
いずれかだが、②は有り得ない。各国の大使館の建物の立つ敷地は、その国の「領土」であって、国際法上は日本国の土地ではないからだ。
私の経験からいうと、大学一年の冬の期末試験が終了した1月末、クラスリーダーが「音頭」を取って、福沢諭吉先生の墓所の有る「麻布山善福寺」にお参りしようという話になった。
これは、私のクラスだけでなく、塾生の慣習ともなっていたものだった。
理由は、お墓参りをし、学部名、学生番号、クラス名、氏名を記帳すれば落第しないという「ジンクス」が有ったからだ。
ところが、善福寺に行く途中で事件は起きた。
少しでも、近道をしようとして歩いていたら、「狸穴(まみあな)」のソ連大使館の前を横切った。
その時、クラスの北海道出身の男と、熊本出身の男二人が条件反射的に興奮した。
1980年代前半のソ連は「悪の帝国」だった。当時は「北方領土返還運動」も起きていた。
北海道出身の男は、地域柄、ソ連嫌いで有名だった。
熊本出身の男は、慶応には珍しく「国粋主義的」な考えを持つ愛国者だった。
たまたま、表門の門扉がわずかに開いていた。二人は押し開けて敷地内に侵入し、「ソ連の馬鹿野郎!」「露助出てこい、この野郎!」と口々に喚き、門扉をガンガン足でけり始めた。異変に気付いた大使館員数人が出てきて、その二人と、止めようとする我々がもみ合いとなり、大使館員は110番した。
5分もしないうちに、警官2人がやってきて、大使館員を説得して、引き取らせ、我々も敷地外に移動させられた。
「君たち駄目じゃないか(怒)」と叱られたので、クラスリーダーのS君が「あなたたちはどっちの味方なんですか?」と詰問すると、「外国大使館は神聖なところだから勝手に入っちゃいかんのだ」と言って、チャリンコで帰っていった。
納得のいかない我々は、お墓参りが終わり、日吉のキャンパスに戻ると、S君を中心に数人の代表で、法学部の国際法の助教授に質問に行った。
私もその中にいたが、結論は先に述べた通り、ソ連大使館の有る狸穴の敷地は、国際法上はソ連の領土だから、許可なく立ち入ることはできないということだった。但し、パーティー等で正式招待されれば別だが。
★という根拠で、イザーマンが、アメリカ大使館に行ったことが事実ならば、「大使からの正式な招待」以外は有り得ない。