7からの続きです。
《背景は対立する2大派閥のクロスする「権力闘争」と「刺し会い」》
「薄熙来失脚事件」
令計画の息子が「不審死」する直前に、ポスト胡錦涛の最有力候補だった薄熙来重慶書記長が失脚しました。
薄熙来とは・・・Wikiより
https://web.archive.org/web/20190406161711/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E7%86%99%E6%9D%A5
中華人民共和国の政治家。国務院副総理などを務めた薄一波を父に持ち、太子党に属する。保守派の旗手として第17期中国共産党中央政治局委員兼重慶市党委員会書記を務めたが、薄熙来事件と呼ばれる汚職・スキャンダルの摘発により失脚した。
同事件は、腐敗摘発とともに、胡温派との権力闘争に敗れたという面がある。
生い立ち
中華人民共和国建国直前の1949年7月3日、薄一波の次男として北平市(現在の北京市)で生まれる。本籍は山西省定襄県。北京市第四中学校卒業後の1968年1月に就職。
同時期に展開されていた文化大革命では紅衛兵組織「連動」の一員であったが、薄熙来は父の失脚にともない投獄された(公式履歴では学習班で労働とされている)。1972年より北京市第二軽工業局五金機修工場に勤務。
1977年2月、北京大学歴史系世界史専攻に入学[1]。
1979年9月、中国社会科学院研究生院(大学院に相当)国際新聞(報道)専攻に入学。1982年8月に修了して修士号を授与された。
遼寧省での活動
1984年10月、遼寧省に転出し同省金県党委員会副書記となる。
その後、遼寧省大連市金州党委書記、大連市経済技術開発区党委書記などを歴任。1988年2月、大連市党委宣伝部長兼市党委常務委員となる。翌年3月、大連市党委常務委員兼常務副市長に就任。
1992年8月、大連市党委副書記兼市長代理となり、翌年3月、大連市長に昇格。同月、第8期全国人民代表大会遼寧省代表(議員)に選出。以後、第9期(1998年 – 2003年)・第10期(2003年 – 2008年)と全人代遼寧省代表として再選される。
1999年9月、遼寧省党委常務委員・大連市党委書記兼市長に昇進。大連市長在任中は環境政策に力を注ぐ一方、日本企業など外資を呼び込んで地元経済の発展に力を尽くした[2]。2000年8月、大連市長を退き、遼寧省党委常務委員・大連市党委書記の職に専念する。
2001年1月、遼寧省党委副書記に就任し、1月10日の同省第9期人民代表大会常務委員会第20回会議において同省副省長・省長代理に選出され、2月24日、正式に遼寧省長となる[3]。
2002年11月、第16回党大会において党中央委員に選出される。薄熙来はこの年、瀋陽などで暴力を用いて他人の財産を奪い、中国東北部で巨万の富を得た劉湧を拘束し、処刑した[4]。
薄は暴力団と民間企業の癒着を許さず、徹底して摘発していき民衆の支持を得た。
遼寧省での経験は、積極的な外資導入による経済発展と暴力団に対する厳しい姿勢といった薄の政治姿勢を涵養し、後に赴任する重慶市での施政でも活かされることになる。
閣僚就任
2004年2月29日、薄熙来は、経済・貿易を管掌する商務部長(大臣)に就任した。在任中、対外貿易摩擦が激しさを増すなか、繊維製品の輸出について欧州連合との交渉を開始した。
重慶に「独立王国」を築く
薄熙来は、2007年10月の第17回党大会で中央委員に再選され、党中央政治局委員に昇格した。
同年11月30日、重慶市党委書記に任命される。12月29日、商務部長を退任。2008年3月、第11期全人代重慶市代表に選出される。
薄が赴任した重慶市は、1997年に「西部開発の拠点」とするため4番目の直轄市に格上げされた都市であった。しかしながら、薄が赴任するまでの10年間は外資投資が進展しなかった。
2003年までの投資総額は5億ドルに届かず、2003年から2007年の合計もわずか10億ドルだった。ところが、薄が赴任し外資導入に着手すると、2008年の外資の投資額は対前年比170%増の27億ドルとなり、翌年には39億ドルを達成した[5]。
薄は外資導入によって年16%を超える超高度経済成長をつくり上げる一方で、低所得者向けの住宅を建造して農村の居住環境を整え、都市と農地が混在する重慶市の特性を生かして発展に導き、重慶の庶民に発展の恩恵を実感させた[6][7]。
その一方で薄は、貧富の格差が深刻で、腐敗した役人や警察ら権力者が威張り散らし、それに大衆の不満が臨界点に達しつつある重慶社会の危険な現実を的確に把握していた[6]。
重慶での政治実績を以て、来る第18回党大会で最高指導部である中央政治局常務委員会入りを目論む薄は、低所得者層に未だ根強い毛沢東の政治手法をまねて民衆の支持を獲得しようとした。
「共同富裕」のスローガンを掲げて格差是正や平等・公平をアピールし、民衆をひきつけた。そして、大衆を動員し毛沢東時代の革命歌を歌わせる政治キャンペーン「唱紅」を展開した[6]。「唱紅」の目的は古き良き共産党のアピールであったが、これが思わぬ懐古ブームを巻き起こし、人々から好評を得た[5]。
また、2009年6月からは犯罪組織一斉検挙キャンペーンである「打黒」を展開した。同年7月より市公安局などを巻き込んだ大規模汚職事件の摘発に乗り出し、事件の中心人物である重慶市司法局長(公安局前任副局長)の文強を初めとして1500人以上を摘発。この事件の捜査は翌年3月に終了した。薄は成果を強調したが、「行き過ぎだ」、「個人的な人気取りだ」などと批判された[8]。
改革派知識人たちは、「打黒」の過程で無罪の者を有罪にしたり、死刑に値しない者も処刑したりするなど、法を無視した捜査に最大の問題があると指摘するが、薄熙来は毛沢東が文革時に実践したように、法やルールより、大衆からの喝采を重視した[6]。
薄は「打黒」によって、自らの政敵を大衆の忌み嫌う「腐敗幹部」として徹底的に排除していったが、「打黒」によって地方の利益を壟断する黒社会・地下経済に正面からメスを入れたことで、薄が大衆から大喝采を浴びたこともまた事実である[5]。
重慶における薄の施政は、中央の幹部にも好意的に評価する声が多かった。
江沢民派(上海閥)の呉邦国(党中央政治局常務委員・全人代常務委員長)、李長春(党中央政治局常務委員)、賀国強(党中央政治局常務委員)や、同じ太子党の習近平(党中央政治局常務委員・国家副主席)などは、薄の施政を重慶モデル(英語版)と称賛した[5]。
薄の施政は、行き過ぎた市場経済を追求した改革の結果、平等・公平という社会主義の本質が失われたと批判し、毛沢東時代への郷愁を前面に出している。
これは胡錦濤総書記・温家宝総理が目指す「鄧小平路線の進化」と対立するものであった[6]。薄は重慶市党委書記という立場ながら重慶市の武装警察だけでなく成都軍区の人民解放軍にも影響力を及ぼす形で胡温体制と対峙し、重慶を独立王国と化していった。
《薄熙来の実績》
- 大連を外資の導入(主に日本企業)により経済発展させ、「北の香港」と呼ばれるまでにした。
- 「黒社会(マフィア)」を徹底的に摘発し根絶させた。
大連の経済成長には、元有名コンサルタント、マッキンゼー東京支社長だった大前研一も絡んでいるようです。
プレジデントオンライン 国家の指導者が頼る 大前流「超参謀メソッド」
https://web.archive.org/web/20141203092342/http://president.jp/articles/-/13881
2014年11月28日の記事
薄煕来もイメージが湧いてからの動きが速い
権力闘争に敗れ、失脚した薄煕来元重慶市党委員会書記も、大前氏のアイデアを最大限活用した。(AP/AFLO=写真)
中国共産党の権力闘争に巻き込まれ、スキャンダルで失脚し、無期懲役を受けた薄煕来(元重慶市党委員会書記)。彼とは彼が大連市長時代に表敬訪問して知り合った。
2度目の表敬訪問の際、ただ挨拶するだけでは面白くないと思って、大連の問題点を勝手に考えて披露した。当時、大連には日本が主導してつくった工業団地があって、日本企業が約3000社きていた。日本から部品を輸入して、大連の工場で組み立てる賃加工モデルが主流で、それなりにうまく回っていた。
ところが90年代後半から日本の部品会社がどんどん中国に進出するようになった。そうなると日本からの部品輸入では間に合わなくなり、長江デルタ(上海、江蘇省、浙江省を中心とした経済圏)や珠江デルタ(広州を流れる珠江のデルタ地帯を中心とした経済圏。広州、深セン、珠海などが主要都市)から、取り寄せなければならなくなる。しかし、当時はまだ陸路のインフラは未整備で、広東省から大連まで陸送すると9日もかかるし、海路は海路で煩雑な輸出入手続きを要する。
「大連の賃加工モデルは成り立たなくなって、新しい組み立て会社はきませんよ」と脅かし半分で説いて、「それじゃ」と帰ろうとしたら、「ちょっと待て。おまえはコンサルタントだろう。問題を指摘するだけでなく、解決策は何なんだ?」と食いついてきた。
解決策までは考えてなかったが、そこはコンサルティングで鍛えた瞬間芸がモノをいう。
「アイルランドはアメリカの仕事を電話線一本で受けてやっているし、インドもそうだ。東北三省には日本語ができる人が結構いるから、そういう人たちを使えば、電話線一本(ネット)で日本企業の間接業務を受けられる」とBPO(自社の業務プロセスの一部を外部の専門会社に委託すること)の仕組みと可能性を説明して、「日本の就業人口の6割は間接業務についている。うまくすれば、それを無限に取り込める。賃加工モデルから卒業できる」と煽ったら、薄煕来はもう大興奮である。
マレーシアの第4代首相、マハティール・ビン・モハマドと同じく、薄煕来もイメージが湧いてからの動きが速い。1カ月後に呼ばれたから行ってみたら、「先生、ここでやってくれ」と200万坪の土地を用意していた。これが後に大連ソフトウェアパークの開発へとつながり、9万人の雇用を生み出した。この辺のいきさつは後に「大連を中国のソフトセンターにしてくれた人」という中国中央電視台(CCTV)で1時間番組になっている。
大連での薄煕来の人気はすさまじかったが、市長で収まる器でない。数年後には遼寧省長になり、私も経済顧問として呼ばれた。遼寧省ではプロジェクトチームを与えられて改革プランを練ったが、如何せん、薄煕来の出世が早すぎた。プランを報告する前に中央政府の商務部長(大臣)になってしまったのだ。
コンサルティングには周期があって、一つのアイデアが実現するまでに5年、10年とかかる。従って、3年に1回出世するリーダーについていくのは容易ではない。自動車部品のクラスターをつくる、という遼寧省の改革プランも出来は悪くなかったが、結局、未完に終わった。
さらに薄煕来が重慶市の党書記になると、再び経済顧問に呼ばれて、以来、薄煕来氏が失脚した後も重慶市との付き合いは続いている。
自慢話も混じっていて、話半分としても凄いですね(笑)
「重慶モデル」とは・・・Wikiより・・・・英語版Wikiの翻訳から
https://web.archive.org/web/20160910170856/https://en.wikipedia.org/wiki/Chongqing_model
「才気煥発」過ぎて出世が早く「高転び」に転んだ薄熙来
「薄熙来事件」
重慶モデルは、国家統制の強化と革新的イデオロギーの推進によって特徴づけられた。それは組織的な犯罪に対する全面的で時々超法規的なキャンペーンを含み、そして都市における安全と警察の存在感を増加させた。
公共の道徳衰退に対処する手段として、薄熙来は毛沢東主義社会主義倫理を促進するために「赤の文化」運動を始めました。
経済面では、彼は積極的に外国からの投資を申し立て、国内消費のための製造業に焦点を当てた。重慶モデルはまた、大規模な公共事業プログラム、貧困者のための助成付き住宅、および農村住民が街に移りやすくすることを目的とした社会政策によっても特徴づけられました。
戦前に「革新官僚」と言われた、岸信介(元総理)さんたちの推し進めた「国家統制経済」によく似ていますね。
《「才気煥発」過ぎて出世が早く「高転び」に転んだ薄熙来》
「薄熙来事件」とは・・・Wikiより
失脚
2011年11月中旬、重慶のホテルで大連時代から薄熙来一家と懇意であったイギリス実業家のニール・ヘイウッド(英語: Neil Heywood)が死亡しているのが発見された。当初、重慶市当局はすぐに死因を急性アルコール中毒としていたが、のちに関係者の証言からヘイウッドが禁酒家であることが明らかとなり、殺人の疑惑が急浮上した[9]。
イギリスは中国に英国人実業家死亡事件の全容解明を要請した。重慶市公安局長で薄の腹心であった王立軍が捜査責任者として、重慶市公安局がイギリス人実業家死亡事件について再捜査に着手した。
重慶市公安局は捜査によって、薄の妻の谷開来(中国語版)と薄の生活秘書がイギリス実業家を毒殺したこと、イギリス人実業家が関与した薄一家が数十億ドルにものぼる不正蓄財した財産を海外送金していた疑惑があること、薄一家が不正蓄財した財産について谷開来とヘイウッドとの間に諍いがあったことが事件のきっかけであることを把握した。
薄は王によるイギリス実業家事件の捜査に危惧を抱き、2012年2月2日に王を重慶市公安局長から解任し、役職を政治的実権のない重慶市副市長のみとした。身の危険を感じた王は2月6日、四川省成都のアメリカ合衆国総領事館に駆け込む亡命未遂事件を起こした。
この事件が発覚したことをきっかけに、薄の妻が関与したイギリス人実業家殺害事件や薄一家の不正蓄財など、薄を巡るスキャンダルがメディアで報道されるようになった。
王立軍亡命未遂事件は、薄の政治生命に大きな影響を及ぼした。
2月中には薄に対する専門調査グループの設置が噂された[10]。去就が注目されるなか、薄は翌月に開催された第11期全人代第5回会議に出席したが、3月8日、「刑事訴訟法修正案」の審議の際、薄は会議を欠席して様々な憶測を呼んだ[11]。
3月9日、薄は記者会見を開き、「自分は汚職の調査対象ではない」と述べたが[12]、3月14日、国務院総理の温家宝は、全人代閉幕後の記者会見で、薄の「唱紅・打黒」運動を文化大革命になぞらえて批判した。
3月15日、党中央組織部は、王立軍亡命未遂事件の責任により、薄の重慶市党委書記職解任を発表した[13]。
4月10日、新華社は、ニール・ヘイウッドは他殺であり、この事件に薄熙来の妻・谷開来らが関与していること、谷開来らがすでに司法当局に身柄を送られたことを公表した。そしてこの日、党中央は、薄熙来に重大な規律違反があったために中央政治局委員・中央委員の職務を停止し、党中央規律検査委員会に審査をゆだねたことを公表した。
9月28日、党中央は中央規律検査委員会の調査結果を受け、薄を党から除名して公職追放するとともに、刑事訴追することを決定した[14]。10月26日、全人代常務委員会は薄熙来の代表資格の取り消しを決定[15]。
これにより、薄は全ての公職から追放された。
ざっくりいうと、ニール・ヘイウッドという、薄熙来家族の「不正蓄財」の指南役だったイギリス人が、報酬か何かでもめて、薄の妻の、谷開来から毒殺されたんですね。
全てを知っていた腹心の王立軍が、「消される」のを恐れて、アメリカ大使館に亡命を求めて逃げ込み、全てをゲロッタことで、今まで「共産党革新派」のエースだった薄熙来の「アキレス腱」が露呈したわけです。
★薄熙来の失脚は当時日本でも大々的に報道されました。
私は民放のニュースで見ました。
率直な感想は「この人の失脚がどれほど重要なのだろう?」という疑問でした。
当時は「中国問題」を勉強していなかったので、ぴんと来なかったのです。
今になって、「薄熙来失脚事件」は日中外交の大きなターニングポイントだったことがわかりました。
《薄熙来の失脚なくして、習近平の国家主席就任はなかった》
★胡錦涛の次は、薄熙来が国家主席になるはずだった。
しかし、自己顕示欲の強烈な、薄熙来の言動が、胡錦濤国家主席、温家宝首相に危機感を与え、失脚・逮捕につながった。
《薄熙来の失脚という、日本とアメリカにとっての幸運》
背が高く(182cm)ハンサムで、頭が切れ、行動力もあり、大衆人気とカリスマ性もある。
丁度、安倍総理を性格を悪くし、陰険にしたようなタイプです。
もし、薄熙来が現在の国家主席だったら、安倍総理もトランプも手強い相手に苦労したでしょう。
あれくらいのカリスマ性があれば、人民解放軍の掌握も早かったでしょうし、「台湾海峡有事」も、日本を排除して、アメリカと直接手を握る「G2」も可能だったでしょう。
「G2」は、習近平が、盛んにオバマに働きかけましたが、「頭が悪く」、オバマを騙しきれませんでした。
薄熙来は現在も収監中ですが、2017年に肝臓がんになっており、「復権」は難しいでしょう。
次号へ続きます。