書籍化されました
寛大だった日本による朝鮮統治
南次郎とは・・・・・Wikiより
日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。軍内派閥では田中義一、宇垣一成の直系として1927年(昭和2年)に参謀次長、1929年(昭和4年)に朝鮮軍司令官を歴任、満州事変当時は陸軍大臣として事変不拡大を指示する。戦後、極東国際軍事裁判にて終身禁固刑となる。
1936年(昭和11年)、第8代朝鮮総督になり内鮮一体化を唱え、
- 民族語の復活
- 朝鮮語教育の推進[要出典]
- 創氏改名
などの政策を行った。朝鮮人の中には抗議の意味を込めて「南太郎」と改名届を出した者もいたとされる[要出典]。南が朝鮮総督として君臨した6年間に朝鮮人の帝国臣民化政策は推進された(ただし、実際には政務総監の大野緑一郎に全て丸投げしていたとの評もある[要出典]。)。
①民族語の復活
➁朝鮮語教育の推進
★「創始改名」については、独立後の「反日教育」で「名前を奪われた」と言う韓国人もいますが、「「姓」と「名」を下さい」と言い出したのは、朝鮮人達ですよ。
「五族協和」の満州国ができて、朝鮮人農民が満州国に開拓団として移住した際に、彼らは「八百年来の属国民」として、中国人の地主や農民に苛められたんです。それで、舐められないように「日本風の氏名を作らせてくれ」と要求したのです。
朝鮮総督府に当時の内地の内務省警保局から出向していた警察のトップは「顔が似ているのに、名前まで一緒になったら区別ができなくなる」と反対しましたが、却下されました。
何故なら、日本統治下の朝鮮半島の最前線で、治安を守っていた巡査や、犯罪者を追いかけていた刑事は皆、現地採用の朝鮮人でしたから、名前が崔から「山本」(通名作成のパターン)に代わっても、ちゃんと「顔」で区別できましたから。
三一独立運動首謀者たちは、後年、親日に。
三一独立運動首謀者の崔南善「近代国家の一員としてちゃんと裁判を受けさせてくれたことに感激」、後年、騒乱の首謀者は親日に。ここでいつも引用する参考文献ですが
P33
「被疑者全員に弁護士がつき、法に則って厳粛に彼らは裁かれました。崔南善ら騒乱の中心人物たちが、後年こぞって親日派となったのは、この総督府の法治精神に感動したからです。
三一独立運動の起草者である崔は、大東亜戦争が勃発するとこれを「聖戦」と呼び、1943年(昭和18年)には、朝鮮学徒の出陣を求めて半島中を遊説しています。
一方、李朝時代に反体制的な運動をすれば、九族皆殺しが当たり前でした。
たとえ死刑は免れても奴婢に落とされるという絶望的な刑がなっていたのです。
随分と遠回りしましたが、
「大韓民国臨時政府=自称臨時亡命政府」とは
仮に、外国で日本赤軍の残党が合流し「社会主義日本国臨時政府」を作ったとする。異国の中華民国でテロリストにより結成された「大韓民国臨時政府=自称臨時亡命政府」とは、そういうもの
続きます。