自称経済学者と言う既得権益
慶大不名誉教授 竹中平蔵
世の中には多くの人を騙して不幸にし自殺に追い込んでも決して逮捕されない「便利な職業」があります。
それは「自称経済学者」です。筆頭は竹中平蔵、大阪大学での博士号取得のプロセスが不正です。
佐々木実の名著「竹中平蔵 市場と権力」に詳述されています。
いい機会だから、佐々木実の著書に頻繁に出て来る竹中に出世の機会を与えた慶大教授の加藤寛氏について語って見ましょう
私は「面識がある」と言ってもよいと思います(笑)三田の時加藤先生の講義の単位を取ったし
三田のキャンパスではよく遭遇しました。
当時は髪型が「羊っぽくて」いつも「羊がびっくりしたような顔」で歩いていました。
塾内では通称「カトカン」と呼ばれてました。
加藤 寛(かとう ひろし、1926年(大正15年)4月3日 – 2013年(平成25年)1月30日)は、
日本の経済学者。学位は経済学博士(慶應義塾大学)、慶應義塾大学名誉教授。名は「かん」と読むこともある。
政府税制調査会会長、内閣府規制改革担当顧問、嘉悦大学学長、千葉商科大学名誉学長、
日本経済政策学会会長・日本計画行政学会会長・ソ連東欧学会代表理事・公共選択学会会長等を歴任。
勲等は勲一等瑞宝章。
慶應義塾大学教授を務める傍ら、鈴木善幸、中曾根康弘両政権時代には第2次臨時行政調査会に加わり、
土光敏夫会長の下で日本国有鉄道や日本専売公社、日本電信電話公社の民営化提言を取り纏めたり、
1990年(平成2年)からは日本政府の税制調査会会長を務めるなど日本の行政や財政、経済改革について幅広い発言を行う。
引用ここまで
ちなみに、我が母校慶應義塾大学の「公式のルール」では「先生」という敬称を付けて良いのが創設者の福沢諭吉先生のみ。
ですから、教授陣はどんなに偉くとも「君づけ」です。
掲示板を見ると「国際経済学 大山道広君 本日休講」と言う風に貼り紙が貼られていました。
なので本来は加藤寛君とすべきですが、社会通念に合わせて「先生」という敬称を付けます。
加藤先生は私が入学した時には「超有名教授」でした。全国的には知りませんが特に「塾内」では。
この「塾内」と言ういい方も慶応独特の言い方です。「校内」「キャンパス内」と言う程度です。
有名だったのは当時は権威があった「時事放談」と言うTV番組にレギュラーとして出演していたからです。
この番組は平成になって「たけしのTVタックル」や田原総一朗の「サンデープロジェクト」が始まるまでは
「政局」にも影響を及ぼす権威のある「政治討論番組」でした。
『時事放談』(じじほうだん)は、TBS系列局(一部地域を除く)、並びにBS-TBSで
毎週日曜日早朝に放送されていた、政治をテーマにした座談会番組(報道討論番組)である。
Wikipediaより
その番組に何で経済学者が出演していたのか謎ですが、全国放送だったので「知る人ぞ知る学者」だったのです。
私は入学後まもなくして勧誘されて「経済新人会」という大きなサークルに入りました。
今見るとHPも有ります。
https://k-shin.org/
経済新人会は、慶應義塾大学の文化団体連盟に所属する経済系の学術サークルです。
その起源は戦後まもない1946年にさかのぼり、戦後日本の復興・再建の中でこれからの社会・
経済を支えていこうという志を持った塾生の集まりから始まりました。
それから74年、当会は塾内において最大級の規模、実績を誇る経済系サークルへと成長を遂げました。
また、経済を学ぶ数少ないサークルとして塾内でも重要な役割を果たしています。
引用ここまで
いろんな意味で「野心的な」学生が集まっていました。
優秀な先輩と人脈を築いて「就職の方便」にするために入会した者、純粋に経済学の「アカデミズム」に挑戦しようとするもです。
私は、後者でした。「経済新人会」は経済学の分野ごとに様々な多くのパートがありました。
例えば「財政パート」や「国際経済パート」などなどです。
私は「理論経済学を重視するパート」に勧誘されて入りました。
話はそれますが、2002年、経済新人会が台湾の故李登輝先生を三田会に招待しようと企画しましたが
開催委員会から阻止され中止になったようです。
後輩たちはよく頑張ったと思います。当時は慶応OBの大物政治家で親中派のドンだった故橋本龍太郎元総理が
健在だったので中国経由で圧力をかけられたのだと思います。残念でした。
その時、可愛がって指導してくれた先輩が後の慶応義塾塾長になった鳥居泰彦先生のゼミの人でした。
鳥居先生と加藤先生は学内では「論敵」でした。
従って、その先輩は加藤寛先生が大嫌いでした。
人間的と言うより「学者としての姿勢」に疑問を持っていたようです。
先輩曰く「TVばかり出てタレント教授だ」「有名な論文を書いたのを見たことが無い」等々です。
先輩は加藤先生が「経済学者としてアカデミズムとは程遠く、自民党本部に足繫く通う」のが不愉快だったようです。
もちろん、加藤先生を評価する学生もいました。「TV出演が好きな学者がいてもいいじゃないか」としかし、少数だったと思います。
その少数の「加藤先生シンパ」の学生はみな、3年次、教養課程の日吉から専門課程の三田に進んだら加藤先生のゼミナールに入りました。
当時の加藤先生の専門の研究対象は何だったかというと「ソ連経済」でした(笑)
正直変わった物を研究するな~と思っていました。
私は3年次に加藤先生の「経済政策」の講義を受講しました。
理由は先輩から「試験の時に授業に出席していることがはっきりわかる答案を書けば「A]が取れる」と聞いたからです。
当時の慶応の試験の評価は上からA→B→C→Dでした。Dは単位を落としたということです。
東大は「優→良→可→不可」でした。
当時加藤先生は、中曽根内閣で「国鉄民営化」の為に奔走していました。
「国鉄」と言っても知らない若い読者様も多いと思いますので、さらっと解説しておきます。
国鉄
日本国有鉄道法に基づき日本の国有鉄道を運営していた公共企業体である。通称は国鉄(こくてつ)。
経営形態は政府が100%出資する公社(特殊法人)であり、いわゆる三公社五現業の一つであった。
鉄道開業以来、国営事業として鉄道省などの政府官庁によって経営されていた国有鉄道事業を、
独立採算制の公共事業として承継する国(運輸省)の外郭団体として1949年(昭和24年)6月1日に発足した。
1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、政府出資の株式会社(特殊会社)形態であるJRグループ各社
及び関係法人に事業を承継し、日本国有鉄道清算事業団(1998年(平成10年)10月22日解散)に移行した。
モータリゼーションの進展による地方での「国鉄離れ」が進んだことに加え、
国が戦争引揚者の雇用対策として、国鉄で大量に採用させた職員の人件費が上昇したことより、
1964年(昭和39年)日本国有鉄道として赤字に転落した。同年は東海道新幹線の開業した年でもある。
昭和40年代後半には、生産性改善運動である『マル生運動』の失敗などもあり、
労使関係が悪化して順法闘争やスト権ストが発生した。
Wikipediaより
1.「赤字」を生み出す構造的な体質
2.荒れる労使間家
から、累積債務の返済、自力黒字化が不可能となって「分割民営化」せざるを得なくなりました。
東京にお住みの若い読者さんはJR山手線の隣同士の駅の間の乗車賃が高いと思いませんか?
高い理由は、国鉄時代、運賃収入を増やすために、絶対に首都圏の住民が通勤用に利用する山手線の
運賃を毎年改定してあげていったからです。
さて、加藤先生の授業の最初は必ず「皆さん、国鉄が何故赤字を垂れ流すか知っていますか?」
「答えは、国鉄と言う文字を見て下さい。「国」が「金」を「失う」と書いてあるからです」
これが加藤先生の「経済政策」の授業の毎年、初回の講義の「つかみ」であり、学生が「笑わなくてはならない」ところでした。
しかし、その後は、退屈なソ連経済の話や、覚える意味のないソ連の経済学者の名前のオンパレードでしたが、歯を食いしばって
ノートを取って、無事「A評価」は取りましたが、ノートはとっくに捨てたし、内容も99・9%忘却の彼方です。
「A」を貰ったからよかったけど、つまらない授業でした。
講座名は「経済政策」でしたがソ連の話ばかりだったと記憶しています。
そして、ノートを取りながら気が付いたのは加藤先生の思考方法は「物事をふわっと大雑把につかんで解釈する」もので「緻密さ厳密さ」
とは程遠いものでした。
私は卒業後書店で加藤先生の一般書を手に取りましたが、
当時の「竹村健一レベル」で塾生としては赤面もので、勿論買いませんでした。
ただ、出演している「時事放談」を見ると、対談相手の政治家や政治記者に対して「経済政策っぽい」ものを説明するのは上手いと思いました。
要するに「プレゼン能力」が高かったのです。
その点、彼が異様に目をかけて可愛がった竹中平蔵によく似ています。
佐々木実の名著「竹中平蔵 市場と権力」の
P90
「共同研究をした研究者たちは、実証研究で必要となるデータの数学的処理や計量モデルの操作が竹中は得意ではなかったと証言している」
引用ここまで
要するに竹中平蔵は「数学が苦手」な「IT音痴」が実態と言うところでしょう。
★得意なのは、「聞く人をけむに巻く」プレゼンだけだと思います。
自民党総裁選前に「2ch創設者で今は人気ユーチューバー」となっている「ひろゆき」の番組にゲストとして出演していましたが
子供ほどの年齢の「ひろゆき」の鋭い突込みに遭って、ブチ切れたり、だんまりを決め込んだりしていたのには笑えました。
私が慶応の経済に入学した時は、1年の必須科目で「経済数学」と言うものがあり、内容は高校レベルをはるかに超えた微分方程式などで
数学が得意な私も四苦八苦してやっと単位を取りました。
経済数学とは、現代経済学、特に最先端のマクロ経済学を理解し、駆使するためには必須の「小道具」です。
恐らく竹中は「経済数学」が理解できていないと思います。
加藤先生も「思考方法が大雑把な感覚型」「政治好き」ということで竹中とは「似たもの同士」で非常にケミストリー(相性)があったのでしょう。
故人ですが今の日本国民の格差拡大と貧窮化については竹中を全面的にバックアップした加藤先生も「共同共謀正犯」です。
★誰も話題にしなくなったので「日本学術会議」についての持論。
組織に幾つかの問題点があることは私も認めます。ただ全国民が納得する理由なく組織の廃止や「任命拒否」するのは反対です。
「人事の問題だから説明できない」という理由付けは無理があると思います。
私が勤務していた大手の証券会社では年2回の賞与の時、部下に渡す前に評価の理由を説明するように義務付けられていました。
昇進人事の時も同じです。特にネガティブな評価となった部下に対しては相手が納得するまで説明するように指示されていました。
例によって学術会議を「既得権益層」だと言って「仮想敵」化しているのが高橋洋一、竹中平蔵、
ネオリベ(新自由主義)学者後は今日銀のボード(日本銀行政策委員会審議委員)にいる野口旭専修大学教授。
野口は岩田とともに「リフレ派」を自称するネオリベの「非主流経済学者グループ」の一人です。
私は学術会議に新しい「任務」を与えたらいいと思います。
それは経済学の「博士論文」の審査を各大学ではなく学術会議で一元的にやる「審査委員会」の設置です。
理由は竹中を筆頭に日本にはあまりにも「自称経済学者」が多いから。
竹中の博士論文は「共著」をベースにした非常識な論文を大阪大学経済学部のドン蠟山昌一が、良識派の学者の
反対をねじ伏せて「学内政治力」で強引に通したものです。
私は竹中の「論文なる物」を学術会議にWGを設置して再審査したらいい。間違いなく落とされるでしょう。
岩田規久男元日銀副総裁、東大の修士課程で落伍しているのに
上智大学で教授を名乗っています。
正式な博士号を持たず修士止まりで日銀のNo2までなった歴史に残る人物です。
しかし、この事実が日銀時代発覚し、国会でも野党に追及され大問題となりました。
日銀、岩田副総裁らの経歴を修正 博士号未取得との批判受けて
2016.6.21 17:29日銀は21日、岩田規久男副総裁と桜井真審議委員の経歴を修正したと発表した。
2人は、東大大学院経済学研究科博士課程「修了」としていたが、
博士号を取得していないため、博士課程「単位取得退学」に改めた。
日銀は、博士号がなくても「博士課程修了」と記し、博士号の取得者は「経済学博士」などと追記して区別していた。
ただ、「週刊ポスト」の報道をきっかけに、衆院財務金融委員会などでも批判を受けたことから今回、修正することにした。
文部科学省も、桜井氏、岩田氏の経歴は「単位取得退学」などとするのが適切としていた。
引用ここまで
恥ずかしいですね。
これでは医師の「無資格営業」や弁護士の「非弁行為」と同じです(怒)
また、修士課程で落伍している岩田を敢えて教授にしたのは、岩田が東大の小宮隆太郎の弟子だからとすれば
これ以上の「既得権益」は無いでしょう。
岩田規久男は国会で指摘されるまで、善良な国民が見たら「博士号取得」と誤解を誘引する経歴を敢えて常用していたのです。
竹中は超有名ですが岩田は著書で「解雇規制の緩和」を主張しているネオリベ経済学者です。
また「正社員制度は既得権益層だから廃止すべきだ」と竹中と同じことを言っていて許せないです(怒)
コロナ禍で多くの非正規の人が「雇止め後」自殺に追い込まれたのは岩田と竹中の共同責任です。
「2%のインフレ目標は雇用を増やす」と言って第二次安倍政権で竹中の「働き方改革」で「生涯非正規労働」と言う
「新しい差別的身分制」を岩田と竹中は共同して作り上げたのです。
また竹中と岩田はお互いに評価しあって世間からの批判を弁護しあっています。
竹中のような「不正な手段」による経済学博士号の剥奪。岩田のような「無資格自称経済学者」の公職追放を
日本学術会議の新しい「職務」として是非やれるよう法改正して欲しいです。
以上