①村井刺殺犯「徐佑行」②「後藤組組長・後藤忠政」③「創価」の三つ巴
村井秀夫刺殺事件(むらいひでおしさつじけん)とは、1995年4月23日に発生した殺人事件。
オウム真理教の幹部で「科学技術省大臣」の村井秀夫が、200人を超えるマスコミ関係者が集まり監視中の東京都港区南青山にあった教団東京総本部前で、山口組傘下の右翼団体「羽根組」構成員の徐裕行に殺害された事件である。
村井は死ぬ間際に「ユダにやられた」と話したという。
実行犯の徐裕行は、山口組系暴力団羽根組の構成員だった。
暴力団若頭K・Kも共犯として5月11日に逮捕された。羽根組はその後解散した。
裁判では、徐は若頭の指示により犯行に及んだと主張した。一方、若頭は「指示」そのものを否定した。警察の捜査でも、暴力団若頭とオウム真理教の接点が見当たらなかった。
また、公判において若頭からの犯行指示日に関する実行犯の供述が不自然であることが明らかになった。裁判の結果、徐裕行に懲役12年、暴力団若頭K・Kに無罪判決が下り、確定した。
この事件で安廣文夫裁判長は「犯行の背後関係はいまだ解明し尽くしておらず、不透明な点が残されていると言わざるを得ない」と発言した。
徐裕行は「上祐史浩、青山吉伸、村井秀夫の教団幹部3人なら誰でもよかった」と供述したが、犯行当日のテレビ報道では実行犯が東京総本山ビル周辺でうろついている姿が度々映像に映っているが、教団幹部である上祐や青山が出入りしても一切動いておらず、最初から村井をターゲットにしていたことが明白と指摘された。犯行動機について徐は「週刊朝日」2012年7月5日特別号で「この事件はもう判決が出て終わっている。
今もお話しできないこともある。だが、なぜ、僕が事件を起こしたか。それは、最終的には『個人の憤り』です。あの当時、社会全体がオウムに対し、異憤りがあったし、僕も『とんでもない連中だ』と強い義憤を感じていた」と、裁判当時の供述とは正反対の主張を展開している。
また森達也から背後関係について質問された際、実行犯は「組織的なことはない」と回答している。被害者の村井が毒劇物の生産や一連のオウム真理教事件の中核を担う立場だったとみられることから、オウム真理教内部による口封じではないかという見方が非常に強かったものの、刑事事件としてはオウム真理教の関与はないと認定されている。
地下鉄サリン事件後、村井はサリン製造疑惑を否定するため頻繁にテレビ出演をしていた。1995年4月17日放送の「THEワイド」で村井は生物化学兵器専門家のカイル・オルソンと討論をしているが、放送中にサリン製造に必要なハステロイの存在を明かしてしまい、厳しく追求される一幕があった。
司会を務めていた草野仁はこの失言が原因で刺殺されたのではと感じたという。後日、村井は日本テレビの特別番組に再びオルソンが参加することを知り「オルソン氏と一緒なら出ない」と出演を拒否している。
実行犯の徐
実行犯の徐は東日本大震災直後に、山口組系暴力団後藤組組長の後藤忠政が主催する復興支援団体の副代表を務めている。
オウム事件当時、後藤組は教団との間で土地取引をしており、事件との関連性が一部マスコミや捜査関係者の間で指摘されていた。
1992年にはオウム教団本部があった上九一色村で、後藤組系の不動産会社「エム・プランニング」の会長ら計6人が国土利用法計画法違反の容疑で逮捕されている。
1995年6月17日に行われた第132回国会予算委員会第33号の中では、錦織淳が静岡県富士宮市のオウム施設が後藤組関係の企業から借りた建物だったと指摘している。
また、オウム事件の捜査に関わった小山金七は富士宮市の土地の購入の世話役は村井秀夫だったと証言している。これらの指摘に対し、
後藤忠政は「あいつら(オウム)も土地がいるんで、俺の知り合いの不動産業者の所に来たらしいわ。
「農地を売って欲しい」とか言って。オウムとの「関係」といったって、その程度のことだ」と証言している。