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秋篠宮家失踪疑惑⑮|後藤忠政とは

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≪後藤忠政とは≫

1958年、

後藤が中学を卒業した年、父後藤和吉が死亡(享年61)。

親戚の縁故で旅館「小松家」の番頭をするが続かず、土方や工場も身にあわず職を転々とする。

兄弟が就職で離れ離れとなり孤独となった後藤は愚連隊に居場所を求め、恐喝を度々繰り返したという。

1969年

暴力団・川内組若頭補佐兼静岡支部長を経て、富士宮市に暴力団・後藤組を結成して組長となる。

後藤組はその後、静岡県における山口組勢力拡大の嚆矢となった。

後藤は、縁あって静岡県浜松市の伊堂組(伊堂敏雄組長)の舎弟となる。

1983年3月

富士宮市内のパチンコ店に後藤の手下である柏木一身が乗り込み、日本刀で経営者の顔を切りつける事件が発生。
翌年にも別の幹部がみかじめ料をめぐってパチンコ店主の顔を切りつけたり、ダンプカーで店を破壊する事件を起こす。

1984年7月

竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂組長は引退。後藤は地盤を引き継いで四代目山口組直参に昇格した。

竹中正久が山口組四代目組長に就くと後藤も山口組直系組長として末席に連なることが許されるようになった。

1985年1月

竹中組長が一和会の構成員に射殺されると山口組と一和会の間で『山一抗争』が勃発した。後藤は一和会の報復に参加し、同年5月に後藤組の構成員、池田満の組員ら3人がダイナマイトを持参してダンプカーに乗りつけ、そのまま神戸市内の一和会会長・山本広の自宅に突入した。

ダンプは警察が設置した車止めを押し倒し、電柱にぶつかって動かなくなった。ダンプから現れた組員は、拳銃を所持しており、すぐに機動隊員と銃撃戦を繰り広げた。死者は出なかったが、組員一人が機動隊員に左肩を撃たれ負傷している。

一和会を直接攻撃するのは失敗した。しかし、警察が固めていようと敵の本丸に突入する後藤の戦意は山口組内部で評価され、
この頃から後藤組は”東海道の暴れん坊”、”武闘派”と呼ばれるようになった。

4月14日

一和会副幹事長吉田好延が国鉄三ノ宮駅前の交差点で停車中に、後藤組幹部の佐藤明義に38口径の拳銃で4発の銃撃を受けた。

吉田は無事だったものの、同乗していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷した。

 

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糸山英太郎襲撃事件

父親の佐々木真太郎は”ゴルフ場王”と呼ばれ、田中角栄、金丸信、安倍晋太郎といった大物や、笹川良一、山口組3代目田岡一雄の長男田岡演とも接点があった。

糸山はゴルフ場の経営で実績を上げ、父親と親しかった笹川良一の親族と結婚。資金的にも恵まれるようになり、政界、投資にも進出。後の総理大臣・中曽根康弘の秘書を経て、

1974年(昭和49年)

石原慎太郎の後押しにより自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区出馬、32歳で参議院議員に初当選する。竹下内閣では外務委員長の要職に就く。

1985年12月暮れ

糸山は新高輪プリンスホテルで選挙資金集めパーティーを計画。

この資金めパーティーに無理矢理協力を押し付けられた関西のある一部上場大手建設会社が、ツテを辿って新右翼活動家・野村秋介に相談。野村はこのパーティーを潰すことを企画し、稲川会、住吉連合会、山口組の組員らにパーティー券を配布。

野村と親密だった後藤組には100枚の券が配られる。

暴力団員が大挙するのを知った糸山は警察を動員。しかし警備はうまくいかず、後藤と野村秋介が現れ糸山に直接抗議を行った。
これに対し糸山はバックの笹川良一の名をちらつかせ、二人の怒りを増幅させた。

1986年6月17日

埼玉県秩父市の市民会館で糸山が総決起大会を開いていたところを後藤組傘下の良知組構成員二人がナイフで襲撃。
糸山は左腕に一週間のけがを負い、犯人は現行犯逮捕された。

1987年

後藤は東京都新宿区に不動産会社「エム・プランニング」を設立、新宿、渋谷に事業を展開させる。

1988年

後藤組員が警備のパトカーに発砲、警官に重傷を負わせる。

 

日本共産党と後藤組

1989年

日本共産党への政治献金が明るみに出て東京、埼玉の右翼から街宣車攻撃を受けていた「地産グループ」
(竹井博友が総帥)の攻防に介入し、右翼団体を排除する腕力を発揮。

(1991年、「地産グループ」から10億円の迂回融資を受けた疑いで東京地検から事情聴取を受ける。)

渡辺芳則を組長とする五代目山口組では、後藤は山口組東京進出の先兵となり勢力拡大に寄与した。

この頃までに後藤組は首都圏のほか、北海道、岩手、福島、埼玉、熊本まで十二都道府県に30以上の傘下団体を持つようになった。

 

1990年2月

当時山口組若頭だった宅見勝率いる宅見組構成員2人が二率会の組員により射殺される事件が起きる。
この報復で山口組、後藤組は八王子へ進出し、20回近くカチコミ(建物にめがけて拳銃を発砲すること)を繰り返す「八王子抗争」を起こした。

ニ率会を平伏させると、後藤はニ率会構成員を吸収して同地域に後藤組正東会を作らせた。

会長には古橋勝利(後に後藤組舎弟頭補佐)を置いた。

 

溝口敦襲撃事件

同年5月

後藤はジャーナリストの溝口敦を西新宿の事務所に呼びつけた。

当時、溝口はスポーツ紙に山口組の記事を連載していた。溝口は過去に後藤にインタビューをしており、後藤は溝口に「うちはマフィア化するね。若い者なんかヤクザ登録しないで、表向き組とのつながりを切った形で企業舎弟に仕立て上げていく。

だけどオレはやつらに儲けはさせない。ヒモをぐっと引いて儲けを吐き出させる」と、自身を鵜飼いに例えながら語っていた。

そんな後藤が溝口を呼びつけた理由は、溝口が刊行しようと準備していた『五代目山口組』にクレームを伝えようとしていたためである。

 

後藤

「山口組のオレの仲間があんたを問題にしている。ハネっ返りも2、3いることだし、あんたにケガをさせたくもない。オレはあんたを知らんわけじゃないから、こうして問に入ったわけだが、どうだろう。今後、山口組のことを書くに当たっては事前に原稿をオレに見せてくれないか」

溝口は摩擦を避けるため妥協するつもりだったが、2日後に後藤は頭から「出版を中止してほしい」と電話で伝えて来た。

溝口「中止したら、ライターとして物笑いのタネになる。どうあっても中止だけはのめない」

 

6月末

溝口は「五代目山口組」を刊行した。

同年8月末

高田馬場で男に左背を深さ10センチ、幅5センチにわたって刺され、東京女子医大に搬送された。犯人は逮捕されず、公訴時効が成立した。

後藤組、上九一色村で事件を起こす

1992年11月

静岡県知事に無届けで土地を売却した国土利用法計画法違反容疑で後藤組幹部が経営する金融不動産業「エム・プランニング」=新宿区西新宿6=が摘発される。

逮捕されたのは後藤組内鴻池組組長の鴻池隆(当時45)=静岡県浜松市布橋=、後藤組内勝政会会長・佐野勝政(当時50)=富士宮市松本69-20=ら5人と、千代田区麹町の不動産会社「愛時資」副社長、橘田幸俊(当時36)=渋谷区代々木5=ら同社役員2人。

「エム・プランニング」は山梨県内のゴルフ場の隣接地を購入価格の10倍でゴルフ場開発会社に買い取らせ、約6億円の利益を上げたとされる。

他でも動揺の手口で買い取りを迫り、応じない場合は隣接地に豚小屋を建てたり、廃油をまくなどのいやがらせをする。
応じた場合は建設工事を請け負う。こうして豊富な資金源を増やした。

関係者によると、直系組長は通常月額、80~100万円の上納金を納めるところを、後藤組の上納金は破格の数千万円に上ることもあったという。

 

伊丹十三襲撃事件

1992年5月22日、暴力団を描いた映画『ミンボーの女』の監督伊丹十三を後藤組組員5人が襲撃。

犯行は現場は世田谷区内の伊丹さん宅前の駐車場で発生。伊丹監督はカッターナイフで切りつけられ、
顔や両腕に全治3カ月の重傷を負った。

警察は現場の車より後藤組の犯行であることを突き止め、12月3日、後藤組本部長・池田満(当時36)、幹部柏木一身(42)、
後藤組内石川組幹部、三国孝男(43)ら5人が傷害容疑で逮捕された。

5人は同月末に全員起訴され、その後、懲役4~6年の実刑判決を受けた。

翌4日、後藤組本部事務所、後藤忠政宅、不動産業「エム・プランニング」など約10カ所で捜査員270人、装甲車30台を動員し家宅捜索が行われる。後藤組事務所には闘犬の他クマも飼育されていたため麻酔銃が用意された。

(毎日新聞92年12月4日東京夕刊より)

92年12月25日

警察庁は13都道府県の刑事部長を集め、東京・半蔵門会館で指定暴力団後藤組に対する「集中取締推進会議」を開いた。

会議の冒頭、国松考次刑事局長は後藤組を来年の最重要取り締まり対象とすることをなどを支持した。

その後も1993年5月には自称右翼の男が伊丹監督作品『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起き、

伊丹への嫌がらせが耐えなかったという。

(伊丹は1997年に投身自殺をしているが、この自殺にも後藤組が関与していた、という説がある。)

1993年6月

建設会社に労働者を派遣させ、労働者派遣法違反容疑で後藤組員6人が逮捕。

1997年10月31日

ニセの賃貸契約署などで入札事務を遅らせたとして、競売妨害の疑いで後藤組幹部で右翼団体代表、松本英也(38)ら3人を逮捕。

調べによると95年9月、倒産した八潮市内の建築資材会社の土地建物(約900平方メートル)について、現状調査に訪れた浦和地裁執行官に、「契約書を交わして政治結社などに転貸借している」などとニセの契約書を提示。

自分が代表の右翼団体の看板を出したり、敷地内に凱旋車を止めたりして入札を妨害した疑い。

1997年12月31日

午前4時頃、埼玉県草加市氷川町で7、8発の銃声があったと住民から届け出があり、住吉会浅草高橋組草加事務所の東側窓ガラス2枚13カ所に銃弾が撃ち込まれていたのが確認される。

同5時半頃、同県三郷市三郷のマンション4階にある後藤組内浜脇組幹部の自宅ドアに8発の銃弾が撃ち込まれているのを、巡回中の吉川署員が発見する。

 

銃器取引

1998年6月15日

旧住宅金融専門会社の大口融資先の一つエスケージー(旧振興開発、本社宮城県松島町)所有ビルなどに政治結社

「天妙会」が機関銃など多数の銃器を隠し持っていた事件で、短銃の一部が後藤組から流れた疑いが強まり、埼玉、東京、宮城などで後藤組事務所など20数カ所を一斉捜査、短銃3丁と実弾10数発を押収。

信岡幸典(当時50)、高尾作一(当時48)、長岡栄司(当時32)を逮捕。

 

プロ野球巨人と後藤組

1999年10月15日

自動車販売のナンバーを不正取得したなどとして、電磁的公正証書原本不実記録・供用の疑いで自走社販売会社「パパイエノール(東京都渋谷区鉢山)」社長、村田和隆(当時39)を逮捕。同社は後藤組のフロント企業とみられ、プロ野球巨人軍の内野守備コーチ、篠塚利夫氏が代表取締役を務めており、警視庁は篠塚宅など30カ所を捜索した。

同日午後6時前から東京間だの球団事務所で記者会見した篠塚コーチは「疑惑が持たれたことに関して、球団やファンの皆さまにおわびしたい」と陳謝。その上で「暴力団がかかわっているとは知らなかった」と交際を否定した。

この事件で山室寛之球団長が篠塚コーチに事情を聴いたうえで厳重注意処分とした。

その後コミッショナー事務所、セリーグ事務局などを訪ね、事件の経緯を説明し、巨人の最高決定機関「最高経営会議」メンバーである読売新聞社の水上健也会長に報告。

渡辺恒夫オーナー、長嶋茂雄監督の了解を得て、篠塚コーチに年内謹慎処分を科し、23日から始まる秋季練習、26日からの宮崎キャンプ、球団公式行事に参加させないことを決めた。

 

日本航空(JAL)と後藤組の黒い闇

1999年2月

日本航空の株百万株が後藤組の組長名義に書き換えられていたことが社内で明らかとなった。

当時、日航の発行済み株式は約17億7千8百万株。組長名義の株はそのうちの0.056%にすぎなかったが、

個人株主では第2位に躍り出たうえ、総会での議案提出権を持つ立場になった。日本航空は以前からヤミ社会との接点を保ち続けていた。

98年8月

過去3年にわたつて植木のリース料目的で総会屋に約2千2百万円の利益給与をしていたとして、日本航空の前職員ら3人が警視庁に書類送検された。さらに99年4月、東京国税局の税務調査で、国内路線を割引料金で
利用できる株主優待割引券や換金した現金を多数の暴力団関係者らに提供した事実が発覚し華やかなイメージとは裏腹の企業体質が浮かび上がった。

99年6月23日

総会直前の日に当時顧問で元社長宅の自宅玄関前に銃弾が撃ち込まれた跡が見つかる。

同月29日、日航の株主総会に過去10年で最多の1400人が出席、「広島グループ」を率いる総会屋の小川薫が発言するなど不穏な空気に包まれた。会場に後藤の姿はなかった。

2000年4月26日

後藤忠政組長に名義変更された日本航空株の売買を無免許で仲介したなどとして、警視庁と静岡県警の合同捜査本部は証券取引法違反と詐欺の疑いで
金融業「クライム」社長、榎本佳晃(当時55)=川崎市多摩区東生田=ら3人を逮捕した。

2001年10月24日

飲食店への入店を断られた腹いせに店員に暴行をしたとして、警視庁捜査四課と麻布署は集団暴行・脅迫の疑いで後藤組幹部の
松本英也(当時42)ら2人を逮捕した。調べによると松本は同年6月上旬、港区六本木のクラブへの入店を満席を理由に断られた事に立腹、
店の男性マネージャー(当時34)を店外に呼びつけて土下座させた上、乗用車のドアを勢いよく開けてマネージャーの肩にぶつけるなどし、
さらに「店をすぐにつぶしてやる」などと脅した疑い。

2002年7月

後藤は五代目山口組若頭補佐に起用されて執行部入り、2005年に六代目山口組が発足すると六代目山口組舎弟に直った。

 

真珠宮ビル不正登記・殺人事件

2005年頃

東京都渋谷区代々木2丁目の雑居ビル「真珠宮(しんじゅく)ビル」の所有権を巡り、同ビル管理会社顧問の野崎和興さん(当時58)と後藤組との間でトラブルが起きた。

ビルはJR新宿駅南口近くの好立地にあったが、所有権が複雑化しており、野崎さんはフロント企業との交渉役として、トラブルの矢面に立っていた。

後藤組系組長、松本英也は配下の近藤毅組員らに、野崎さんの監視を指示、監視カメラを搭載したバイクで野崎さんの監視1年近く続けた。

同年年2月28日

「菱和ライフクリエイト(現:クレアスライフ)」と「フェニックス・トラスト」が「真珠宮ビル」の売買契約を解除し、所有権を後藤組組長である後藤忠政の資産管理会社に不正に移転。

2006年3月5日夜

野崎和興さんが近藤毅組員に背、中などを刃物で刺され殺害された。近藤は松本英也の支援により国外逃亡した。

同年5月8日

警視庁は電磁的公正証書不実記録容疑などで後藤忠政ら13人を逮捕した。計5人が起訴され、3人
(後藤忠政・金融業者・フェニックス・トラスト実質経営者)に有罪判決、2人(菱和ライフクリエイト経営者・仲介者)に無罪判決が確定した。

後藤は懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を受けた。この事件で遺族らは司忍六代目と後藤らを相手に損害賠償請求を起こした。

2010年12月3日

現場から逃走する車の運転手役を担当した後藤組の男を逮捕。2011年5月31日に東京地裁の裁判員裁判で
運転手役の男に懲役13年の有罪判決が言い渡され、確定した。

2011年4月26日

国外逃亡していた近藤毅がタイ北部のチェンライ山中で射殺された。

射殺したタイ人ガイドによれば「トラブルになり近藤元組員に発砲 され銃撃戦になった」と主張。
しかし遺体の状況から背後から一方的に撃たれた可能性が高いという。

2012年10月

後藤が遺族に計1億1,000万円を支払い哀悼の意を表す等の条件で和解した。

 

除籍

2008年9月

後藤は病気を理由に総本部での定例会を欠席したにもかかわらず、芸能人らを集めて誕生日を祝うゴルフコンペを開く。
翌月マスコミの報道(週刊新潮08年10月9日号)で発覚し、「除籍処分」を受け表面上引退した。

参加者は細川たかし(58)、小林旭(69)、松原のぶえ(47)、角川博(54)、中条きよし(62)ら5人の歌手が出席。

このことが大々的に報道され、NHKは今月6日、5人を同局のすべてのテレビ、ラジオ番組への出演を当面の間、見合わせることを決めた。

後藤は以前も体調不良を理由に定例会をたびたび欠席していおり、除籍は執行部が激怒したことが原因だとされている。

しかし、関係者によると、除籍は、制裁である「破門」「除名」と違い、本人からの申し出を組織側が了承することが一般的という。

この処分に異を唱えた直参(浅川桂次・浅川会会長、井奥文夫・井奥会会長、小野守利・六代目奥州会津角定一家総長、奈須幸則・三代目大門会会長、川崎昌彦・二代目一心会会長、佐川睦男・二代目浅川一家総長、大田守正・大田興業組長)といった直系組長7人も後藤に連座して絶縁・除籍・謹慎などの処分を受けた。

後藤組若頭だった良知組組長・良知政志と後藤組総本部長だった藤友会会長・塚本修正が後藤組の地盤を継承して六代目山口組の直参に昇格している。

 

引退後

2009年4月8日

神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る。

2011年頃

カンボジアに移住し、プノンペンの高級マンションに居住。

カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などの活動も行っており、2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する『アジャ』の称号を授与されアジャ忠叡を名乗る。

カンボジア政府高官に人脈を築いて、国会議員を目指すことも考えているという。

 

創価学会と後藤組

後藤組と関係の深い作家、山平重樹の「ドキュメント野村秋介」によればおおむね次のようなことがあったという。

「創価学会は80年、大石寺近くに5万基の大霊園を造ったが、周辺も含めて用地買収、建設に当たって合法的なことばかりでは済まされず、裏の汚れた役割に後藤組を使った」「成果をあげた後には後藤組組員の服役だけが残った。が、学会から返事がない。

それから学会に対する闘いが始まった。新右翼・野村秋介氏が支援に回り共闘が始まる。散弾銃、火炎瓶、短銃、雑誌でのキャンペーン……」

創価と後藤組の関係は1970年代まで遡る。日蓮正宗の信徒集団だった創価学会はかつて、後藤組の地元、静岡県富士宮市の「大石寺」を総本山としていたが、

70年ごろから大石寺周辺の土地を買い漁り、境内を拡張。72年には大本堂「正本堂」を建立し、73年からは正本堂近くの広大な敷地に墓苑「富士桜自然墓地公園」の建設を始めるなど(80年完成)大規模な造成を行った。

 

後藤組長が著した「憚りながら」によると、次の話がある

「当時、大石寺絡みの土地売買や建設工事で、富士宮に流れ込んだ金は莫大だったんだ。大本堂で300億円、富士桜(自然墓地公園)で200億円、
その周りの土地を買うのに数百億円といった具合に、全部で1000億円近くになったんじゃないか」

ところが当時、後藤とも懇意だった地元市議が経営する建設会社「日原造園」が「富士桜自然墓地公園」の利権を独占していたため、他の業者から不満があり、日原と後藤組との関係を指摘するビラがまかれた。

 

1977年10月

後藤組幹部がこのビラをまいた住民宅に、大型ブルドーザーで突入し、ブロック塀を10mにわたって破壊、さらに自宅に上がり込み、その住民を日本刀で切りつけ、左腕や背中、顔に2ヶ月の怪我を負わせ、翌日、襲撃犯は殺人未遂の容疑で逮捕された。

後藤によると、「この事件でウチの若い衆は(懲役)6年食らったんだけど、実は日原の後ろにはあの「山崎正友」がいたんだ。
日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜を進めていたわけだ」(前出「憚りながら」より)。

山崎は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作の”お庭版”であると同時に、学会の暗部を取り仕切っていたといわれている。

後藤によると「学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしていた」という。

「大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな。それが(富士宮市)議会で問題になったり、道路法違反で池田大作が告発されたりしたんだよ」。

さらに富士宮しないでは、学会と日原の癒着を追求する「日原造園、創価学会と市政の疑惑を正す市民会議」が結成され、学会に対する大規模な反対運動が起こったのだが、その反対運動潰しに学会が使ったのが後藤組だった。

81年

富士宮議会は百条委員会の設置した。

百条委員会とは地方自治法100条に基づく特別調査委員会で、関係者の証人喚問、強制捜査、さらには証言拒否や偽証には禁固や罰金刑を科せる、という強力な権限を持つ。

学会は反対運動潰しに続いて”百人委員会潰し”をするため後藤組に依頼、同年12月に委員会は消滅した。

 

後藤

「ところが、だ。あいつら(学会)の依頼で協力してやったのに、その後(百条委員会が終結した後)は知らんぷりだ。

それどころか、俺が今まで山崎から相談を受けて、学会のために協力したことを、「それは山崎とあんた(後藤)が勝手にやったあことであって、
ウチ(学会)は一切知りません」という態度になった。

市議、嫌疑といった地元の公明党関係者もみんな。それは話が違うだろう、と。

山崎はあくまで学会のパイプ役、池田の使いとして着たんだ。べつに俺は山崎に使われてたわけじゃない。

あくまで池田のために協力してやったんだ。”あんまり他人様になっちゃいかんぜ”という話だよ。」

 

学会の態度に不満を持った後藤は学会に内容証明郵便を送った。

ところがその3ヶ月後の1983年6月、静岡県警富士宮署に「後藤組壊滅対策本部」が設置されたと言う。

後藤によれば1年足らずの間に60人以上の組員が逮捕されたといい、学会への怒りが頂点に達したという。

1985年11月12日、創価学会文化会館で、後藤組幹部ら3人が銃弾を撃ち込み、銃刀法違反で現行犯逮捕された。

後藤「これには池田もビビっただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で”パン”って音がするんだから(笑)。それで慌てて、俺んところに池田の使いものもんが飛んできて、詫びを入れてきたんだ。俺はべつにこの使いのもんが心底憎いとか、嫌いというわけじゃないから、本人の名誉のためにも『X』とでもしておこうか(笑)」

このXは藤井富雄・元公明党東京都議だといわれている。この”池田のつかい”である藤井の活躍により、創価学会は後藤組と協力関係を取り戻したといわれている。

その一方で創価学会名誉会長だった池田は91年11月、日蓮正宗から破門され。これ以降、宗門と学会は激しく対立する。

そしてその池田は門から5ヶ月後の翌年4月には学会と対立する大石寺「妙遠坊」で発砲事件が発生。

同年5月には大石寺「奉天寮」に火炎瓶が投げつけられる事件が起こるのだ。まるで学会側の意をくんだかのように、である。

 

新左翼と後藤組

後藤組の力は資金力と腕力だけではない。山口組の目下の最大関心事は暴力団対策法への対応だ。反権力を掲げる遠藤誠弁護士を擁して、法律闘争に余念がない。

山口組にこの異色の弁護士をスカウトしたのが、実は後藤組長だった。さらに言えば、後藤組長に紹介したのが野村秋介だった。
92年に暴力団新法反対の集会、デモが三回繰り広げられ当時話題を集めたが、参加者は新右翼・新左翼・暴力団の三者共闘だった。

弁護士の遠藤誠は、本法の違憲を主張する行政訴訟の弁護に際して、山口組からの12億円余の資金提供の申出を受けたが無償で弁護している。

また、遠藤と野村秋介の音頭により、暴力団有志による「任侠市民連合」、右翼団体・一水会の青年組織「統一戦線義勇軍」、新左翼の日本共産党(行動派)が合同で、デモ行進などによる反対運動を展開した。鈴木邦男もデモに参加した。

 

●”人権派”弁護士・遠藤誠とは

1930年宮城県大川原町生まれ。仙台陸軍幼年学校中退。東京大学法学部に進み、1953年に卒業、55年司法試験に合格。

千葉地裁判事補を3年務め61年弁護士に転職。帝銀事件弁護団長、永山則夫連続射殺魔事件主任弁護人、反戦自衛官事件弁護団長を務めた。遠藤誠法律事務所所長。

 

現在の後藤忠政

2016年3月、山口組と神戸山口組が分列し対立を深める中、後藤は療養を目的に日本へ帰国。

関西のある組織関係者によれば「(後藤が)両山口組との接触はない」と断言していが、今だにうがった見方も根強くあり、「神戸山口組が後藤元組長のお見舞いに来るらしい」など確定的ではない情報が流れた。

後藤は3月30日に退院したといい、「過去に交友のあった民間施設を訪れた」と目撃情報が寄せられている

。今後も後藤の動向に各方面から視線が注がれている。

 

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