書籍化されました
③からの続きです。
≪反共政策の次々の失敗≫
ロシア革命を見ると分かるように、革命勢力の中心となったのは、労働者と農民でした。南ベトナムは「純農業国」ですから、労働者階級はいません。
共産革命指導者のオルグ(組織化、洗脳)のターゲットとなるのは、農民層となります。農民層の、貧農で、地主から搾取される対象を洗脳し、組織化すれば国内に「反政府勢力」を作れます。地主層を除く、農民層の「共産化」を防ぐ良い方法は「農地改革」です。
アメリカ政府は、元GHQの担当者で、日本で「農地改革」を成功させたウォルフ・ラジデンスキーを派遣しましたが、成功しませんでした。
それは、熱心なキリスト教徒の大統領、ゴ・ジン・ジェム(以降ジェム)が、キリスト教徒の多い地主層を庇ったからです。
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「戦略村構想」の失敗
「戦略村」とは、戦後、マレーを再び支配した、イギリスが、農村への共産勢力の浸透を防ぐために、未だ共産化されていない農民たちを一定の区域に隔離して、共産勢力との接触を遮断する「反共政策」です。
これは、マレーシアでは上手くいきましたが、南ベトナムでは成功しませんでした。
何故なら、農民たちが、住み慣れた土地を離れたがらなかったからです。
★こうして、南ベトナムの農民層、特に農村を、アメリカと南ベトナムは、自国側にとどめておく「政策」に失敗しました。
これで、ベトコン側が、農村に自由に浸透することが可能となり、南ベトナムの悲劇的な最期を迎える準備が出来上がりました。
≪ケネディ大統領による、ベトナム本格介入の開始≫
1961年5月、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定。
南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。
≪ケネディが準備した対北ベトナム「神童集団」≫
ケネディは、対北ベトナム戦争を、早く、米軍の死傷者を最低限にしながら、効率的に勝つために必要な、最高級の人材を集めました。Wihzkids(神童達)と呼ばれる人々です。
フォードモーター社長の、ロバート・マクナマラを国防長官に、
ハーバート大学教養学部長のマクジョージ・バンディを安全保障担当の特別補佐官に任用しました。
アメリカが北ベトナムに勝てないことを悟った、バンディは、1966年にさっさと辞任しましたが、その後任のウィリアム・ロストウもその一人と言われますが、ここでは割愛します。
≪ロバート・マクナマラ;最高の知性と、統計学やシステム分析を用いて、北ベトナムとベトコンを屈服させようとした天才の挫折≫
ピューリッツァ賞受賞のジャーナリスト、ディビット・ハルバースタムの名作「ベスト&ブライテスト」は、泥沼と化したベトナム戦争の責任を問う名作です。
特に、登場人物は、ケネディ、ジョンソン両大統領と、政権をコントロールした政治エリート達に対する批判です。
特に、集中的に批判されたのは、国防長官だったマクナマラです。タイトルの「ベスト&ブライテスト」は直訳すると「最良で最も賢明な人達」ですが、含意として「そのような人達をもってしても、小国北ベトナムに勝てなかったという皮肉を感じます。
マクナマラは、ハーバードビジネススクールを出たエリートでした。その後ビジネススクールで教鞭をとるようになり、企業経営者に教える「システム分析」を陸軍航空隊の将校に教えていました。第二次大戦が始まると、陸軍の統計管理局に勤務となり、米軍のドイツへの「戦略爆撃」の立案と効果の解析をしました。
大戦後は、経営不振に苦しむフォードモーターズの役員に迎えられ、大胆なリストラと不採算工場の閉鎖で、構造改革を進め、業績を大幅に改善させた後、フォードモーターズの社長に就任しました。
★要するに、当時としては未だ普及していなかった統計学と言う分析ツールを駆使し、開発されたばかりのコンピュータを活用したシステム分析で、自軍の最少の被害と、より少ないコストで、最大の戦果を挙げることを試みた「戦争企業家」でした。
彼は、ケネディに就任を要請された時の条件として、自分の部下は自分で選ぶことを認めさせており、マクナマラスタッフチームは、政権内の「対北ベトナム、ベトコンの参謀本部」でした。見方を変えれば、ベトナム戦争は「天才マクナマラVSベトナム民族の統一の意志」の戦いでした。
次は、マクナマラの命式を見てみましょう。