書籍化されました
≪トンキン湾事件≫wikiより
1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。
これをきっかけに、アメリカ合衆国連邦政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。
アメリカ合衆国議会は、上院で88対2、下院で416対0で大統領支持を決議をした。
ともあれ、これで、ジョンソン大統領は、「実質的な戦時大権」を得たのでした。
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≪北ベトナムへ中ソからの軍事援助≫wikiより
1964年にソ連は北ベトナムへの全面的な軍事援助の開始を表明し、ソ連は軍事顧問団を派遣、1965年2月にはアレクセイ・コスイギン首相がハノイ入りした。
これまで北ベトナム軍への軍事援助を行っていた中華人民共和国からは、軽火器の供給は豊富にあったが重火器の供給はほとんどなかったため、
ゲリラ的な攻撃しか行うことができなかった。これ以降ソビエト連邦から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現する。
≪北爆の開始≫wikiより
1964年11月にはビエンホアの基地が襲撃されて5人の軍事顧問が死亡し、サイゴン市内のホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺される。その後、ソ連のコスイギン首相が北ベトナムを訪問していた1965年2月7日に、プレイクのアメリカ軍事顧問団基地が解放戦線によって攻撃され、駐留アメリカ軍将兵のうち7名が死亡し109名が負傷した。
この襲撃は、マクジョージ・バンディ国家安全保障担当補佐官がアメリカの調査団としてサイゴンに到着した翌朝の出来事であったため、
バンディはこれを北ベトナム政府からの挑発であると受け取り、この時に既に南ベトナムに派遣されていたウエストモーランド将軍と協議して軍事行動の強硬論に傾き、
これがリンドン・ジョンソン米大統領が北爆を決断するきっかけとなった。
以上
≪効果は限定的だった「北爆」≫wikiより
当初アメリカ軍による爆撃は、北ベトナムの発電所やダムのみならず、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていたなど極めて限定的なものであった。
これは、当時北ベトナムを支援していたソ連の軍事顧問団の存在がこれらの各施設内および周辺に確認されており、万一誤爆しソ連の軍事顧問団の将官が死傷した場合は、米ソ直接対決やアメリカの国内世論の猛反発を受けるのが必至とされていたからであった。
これは防空体制が貧弱な北ベトナム軍にとって極めて有利な状況に働いた。
この様な状況を受けて、北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。
さらにはアメリカ軍による北ベトナム国内の空軍基地や飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に「聖域」を与えた。
北ベトナム空軍に対してソ連から貸与された、ミコヤンMiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、
アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。なお、これらのソ連からの貸与機の一部は、北ベトナム軍パイロットに操縦訓練を施すために派遣されたソ連人パイロットが操縦していたことが確認されている。
以上
★「北爆」を「戦略爆撃」ととらえるならば、敵国の、あらゆるインフラを「聖域を設けずに」爆撃しないと効果は有りません。
勿論、非戦闘員(民間人)を巻き添えにする「戦時国際法違反」の問題は出てきます。
第二次大戦で、ドイツ諸都市の戦略爆撃、「東京大空襲」を立案したマクナマラですが、一つ大きな勘違いをしていました。
「戦略爆撃」は確かに標的にされた都市には打撃は与えますが、相手の「抗戦意志」をくじくことはできません。
ドイツも日本も「戦略爆撃」では降伏しませんでした。また被害に遭った住民は、米軍に対する憎悪をたぎらせ、かえって「復讐心」を燃やして一致団結したのです。
★その辺の「戦争心理」を、統計数字とコンピューターしか見ることの無かったマクナマラの限界と言えます。
しかし、マクナマラにも同情すべき点はあります。最初ケネディに、国防長官をと口説かれた時に「私は実際の戦争体験が無いので」と再三固辞しているのです。
≪戦略爆撃とは≫wikiより
戦略爆撃とは、戦場から離れた敵国領土や占領地を攻撃する場合が多く、工場や港、油田などの施設を破壊する「精密爆撃」と、住宅地や商業地を破壊して敵国民の士気を喪失させる「都市爆撃(無差別爆撃)」とに分けられる爆撃のことである。
これに対し、戦場で敵の戦闘部隊を叩いて直接戦局を有利にすることを目的とする爆撃を「戦術爆撃」という戦略爆撃が軍事に与えた影響は革命的だった。
航空戦力理論家たちは、新鋭の長距離爆撃機は戦線支援や艦隊支援といった支援任務に甘んじるべきではなく、第三の独立した軍として編成するべきだとした。
爆撃機の任務はもはや戦術的・短期的ではなく、独立して敵戦力を叩き、銃後にまで戦争を広げるという戦略的任務となった。そこが革命的であり、画期的な美点とされた
以上
旧日本軍も「戦略爆撃」をやったことを知っていますか?
それは、日中戦争中の「重慶爆撃」です。
重慶爆撃 wikiより
重慶爆撃(じゅうけいばくげき)は、日中戦争中の1938年12月18日から1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃。
1937年日本軍は中華民国の首都南京を攻略し占領した。これに対して、蒋介石の中国国民党政府は首都機能を南京から漢口に移転した。
しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である四川の重慶への首都移転を実行した。
大本営は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、兵站の問題もあり、即時攻略は困難であるという結論に達した。
爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には4333トンに達した。
爆撃は海軍航空隊、陸軍航空隊それぞれが日程調整のうえ実施した。爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、
「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。
しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生する可能性があった。
そのため後期からは完全な無差別爆撃・絨毯爆撃となった。
爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。しかし、現実には中国軍に与えた影響は大きく、蒋介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれたと感じていたという。
この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍戦闘機の航続距離が爆撃機のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。重慶爆撃以前に立案され開発が進められていた零戦が完成、初めて戦線に投入され13機の零戦で27機の国民党軍機を全滅させる戦果を得るなど、重慶爆撃に貢献している。
以上
★「重慶爆撃」は、2年前の1937年、スペイン内戦で、フランコ総統を支持する、ドイツ軍が、スペイン、バスク地方のゲルニカを爆撃したことに続く戦史上、第二例目です。
重慶爆撃は、日中戦争の早期終結をめざし、海軍の井上成美シナ方面艦隊総謀総長の発案で行われました。
戦後、重慶にこもった蒋介石自身が、「継戦能力」喪失寸前だと告白するほど、打撃を与えましたが、「非人道的だ」と言う陸軍の意見で作戦は中止されました。
旧大日本帝国軍の方が、アメリカ軍より人道的でした。
≪米軍、地上軍投入、海兵隊ダナンに上陸≫wikiより
ジョンソン大統領はトンキン湾決議に基づき、1965年3月8日に海兵隊3,500人を南ベトナムのダナンに上陸させた。
そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。アメリカはケネディ政権時代より南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を
「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、
ジョンソンはさらに1965年7月28日に陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は最終的に最大50万人に膨れ上がった。
こうして地上軍の投入により戦線が拡大していく。
≪韓国・SEATO連合軍の参戦≫wikiより
朴正煕はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開することを意図してベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。
ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた。
1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。
また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって、韓国は漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。
1965年9月から10月にかけて大韓民国陸軍陸軍首都師団(通称:猛虎師団、)の1万数千兵、および大韓民国海兵隊第2海兵旅団(通称:青竜師団)もベトナムに上陸した。
1966年9月3日には同陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。
タイ王国やフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどの反共軍事同盟東南アジア条約機構(SEATO)の加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、
韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。これは、米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、が理由である。
この5カ国の中で最も積極的に戦ったのは韓国軍とオーストラリア軍だった。厭戦気分が蔓延したアメリカ軍とは対照的に、韓国軍、オーストラリア軍はパリ協定まで、高い士気を維持した。
韓国軍は南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム正規軍に対して、それぞれ1:10、1:5という損害比で両勢力を圧倒し、オーストラリア軍も激戦を繰り広げ、ベトナムに派遣した54両のセンチュリオン戦車全てが損害を受けるなどした。
一方で韓国軍とオーストラリア軍の戦死率は5カ国の中で、それぞれ1番目と2番目に高かった。
続きます。