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≪政権交代とニクソンの登場≫
大統領選本戦では、民主党はヒューバート・ホレイショ・ハンフリー(左)、共和党はニクソン(右)が戦いました。
民主党・ハンフリーは、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し、共和党・ニクソンは「法と秩序の回復」を強く訴え、1969年1月20日にニクソンが大統領に就任した。
ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。
なお、就任以前から段階的撤退を訴え、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する”秘密の方策”がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との交渉(パリ和平会談)を開始させた。
左)キッシンジャー、右)ニクソン
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《ニクソンの登場とベトナム戦争の変質》
★宣戦布告無き長期戦争
ベトナム戦争は、1961年5月のケネディによる「ベトナム本格介入」に始まり、1975年4月30日の北ベトナム軍侵攻によるサイゴン陥落で終わります。
約14年もかかりました。その間、アメリカ、北ベトナムともにお互いに宣戦布告なく続けられました。
それは何故か?
ケネディ~ジョンソン時代:1961年5月、アメリカの軍事顧問団派遣~1969年1月19日、
翌日20日からはニクソン新大統領就任
★米ソ冷戦の代理戦争。ケネディとソ連のフルシチョフは、「ベトナム南北分断固定化」で暗黙の合意がありました。
当時の東西ドイツ、南北朝鮮と同じです。この間二人の大統領の政策は、「南ベトナム」の「赤化防止」と「南ベトナム軍の支援」にありました。
宣戦布告が無かったのは、北ベトナム正規軍の、国境を越えての侵攻がなかったからです。
北ベトナムも、世界最強の米軍との地上戦は慎重に避けていました。
しかし、南ベトナム国内の反政府共産勢力のベトコンには、ホーチミンルートを通じて、武器や食料の補給を行っていましたから、事実上、北ベトナム軍と戦闘していたのと同じです。
この間の戦闘は主に、南ベトナム国内で、ベトコンとアメリカ軍、南ベトナム軍との戦いでした。
いわば「南ベトナムの内戦状態」です。ベトコンを支援している北ベトナムに対しては、「北爆」で対応しましたが、米軍の地上軍は、国境を越えて北に攻め込むことはしませんでした。
1968年1月になって、初めて、北ベトナム正規軍は、国境を越えて南下し「テト攻勢」を行いました。
タイミングとしては、この時、北ベトナムに宣戦布告チャンスでありましたが、「テト攻勢」での苦戦がTV中継で本国に伝わると、アメリカ世論の「ベトナム戦争への不信」や「反戦運動」の高まりで、「ベトナムからの撤退」と「北爆の停止」を求める機運が高まり、ジョンソン大統領は、次期大統領選への不出馬を決めます。
共和党から、大統領に就任したリチャードニクソンは「南ベトナムからの撤退」を公約として、当選しましたから、54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減しました。
これを「ベトナム化」と呼びました。これは、「勝ち目のない戦争から、俺たち(米軍)は撤退するから自分たちの国(南ベトナム)は自分たちで守れ」ということです。
高名なキッシンジャーを国家安全保障大統領補佐官に任命しての、「現実主義外交」で、ベトナム派遣アメリカ軍の完全撤退を実現します。