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次は周恩来の命式です。
四柱推命鑑定命式|周恩来
1898年3月5日生まれ~1976年1月8日(77歳没)
・・・上 中 下 宿命星 十二運 吉凶星
年柱 戊 戌 戊 傷官 傷官 養 華蓋
月柱 甲 寅 甲 印綬 印綬 死 亡神
日柱 丁 卯 乙 偏印 病 天徳貴人 咸池
時柱 己 酉 辛 食神 偏財 長生 天乙貴人 文昌貴人 囚獄 白虎殺
【戌亥空亡】年柱に戌があるが、日柱の卯と支合を形成するので解空となる。
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【総合鑑定】No2に徹して、毛の粛清から逃れた男。
十二運を見ると、養、死、病、長生で、身弱です。
月令を見ると、春まだ浅き3月初旬の丁(蝋燭の火)です。丁の旬は夏ですから、月令は得ていません。
日柱の卯と時柱の酉が冲「ちゅう」を形成します。そのために天乙貴人が死んでしまいました。
八路軍以来の毛の同士で粛清されず、天寿を全うしたのは、この人だけといっても過言ではないでしょう。
毛沢東が存命時代は、毛を追い越した同士は全員、文化大革命で粛清されました。
毛は「大躍進政策」で失敗し、中国人3千万人を餓死させました。責任を取る形で、一時逼塞しましたが、
代わりに、劉少奇が政治を行い、実績を出したら、過激な青年共産党員を「紅衛兵」として指揮し、劉少奇らに「走資派」(資本主義に逃げる裏切り者)というレッテルを貼って
多くの共産党員や、人民を吊し上げ粛清しました。
周恩来という人は若いころ、日本の明治大学に留学経験もあり、「親日家」でした。
後の実力者の鄧小平も文革で、追放されましたが、周がかばったお陰で粛清されずに済みました。
《印星殺の成立》
印綬が2個、偏印が1個あるので印星殺の成立です。
周の死亡日を見てみましょう。
76年 乙卯乙 偏印 偏印
01月 己丑己 食神 食神
8日 己未己 食神 食神
1976年は偏印の年となっています。お迎えが来たのでしょう。
ちなみに亡くなった年の77歳の大運は、70歳~80歳 壬戌―正官―養―空亡で、大運空亡でした。
天寿を全うした形でしょうか。同じ年の9月9日に毛も亡くなっています。
周恩来の日柱は、丁卯―病で性格分類でいうと「感情型」です。非常に感受性が強く潔癖な性格です。稀にこのタイプの人から「人格者」が見受けられます。
暴君の毛に比べ、慈悲深い老爺タイプの周は国民に人気がありました。
周が亡くなったとき、毛は喜んだといいます。自分より人望のある周に嫉妬していたのだと思います。
★周の生涯は、絶対毛より、前に出ないように細心の注意を取り続けた人生でした。
生前の、周をよく知る人から言えば、中国の皇帝に使える、典型的な「宰相タイプ」だったそうです。もちろん皇帝は毛です。
《北ベトナムから中ソを分断し、本格的な「戦略爆撃」を行ったニクソン》
米中が和解し、中ソが対立して軍事的に対峙するようになって、ニクソンは「聖域なき北爆」を行えるようになりました。
アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムのインフラストラクチャーにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。
北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス休暇中による再度の北爆は、国際社会の轟々たる批難と反発を受け、短期間で中止された。
アメリカ合衆国連邦政府の目論見通り、この空爆の成功は、北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。