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ジョージ6世
(在位:1936年12月11日 – 1952年2月6日)
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)ならびに海外自治領の国王。
最後のインド皇帝にして、最初のイギリス連邦元首でもあった。
1895年12月14日 アルバート誕生・王位継承権第4位
曽祖母のビクトリア女王の治世下で、ジョージ5世になるビクトリア女王の摘孫と、メアリ王妃の間に生まれた。
誕生日は、女王の亡夫のアルバートの命日だった。そのため、アルバートと名付けられた。
この時期の王位継承順位は、
女王・ヴィクトリア(曾祖母)、
王位継承順位
第一位・王太子エドワード(祖父)、
第二位・ジョージ5世(父)、
第三位・エドワード(兄)
につぐ第四位だった。
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病弱、吃音、ネグレストに苦しむ
アルバートは病弱で、「すぐに怯えだして、泣き出す子供」といわれ、吃音症を煩い、さらには左利きだったため、右利きに矯正させられた。
慢性胃炎、X脚を煩い、これも矯正具の脚部への着用を強制された。
両親のヨーク公夫妻は、当時の王侯貴族階級の慣習と同じく、日々の子供の養育にはほとんど関与しなかった。
しかしながら、生まれ以ての特質のX脚や左利きなどへの矯正を強制した。
1901年01月22日・祖父のエドワード7世が即位・王位継承順位3位に
ヴィクトリア女王が1901年1月22日に崩御し、アルバートの祖父の王太子エドワードがエドワード7世としてイギリス王位に就いた。
エドワード7世は、ビクトリア女王が長命だったため、王太子でいる時期が長かった。
1909年 軍人教育開始
王立オズボーン海軍兵学校に入学して、軍人教育を受け始めた。
1911年 兵学校の成績は最下位
兵学校での卒業試験で最下等の成績だった。そのまま王立ダートマス海軍大学へと進学している。
虚弱、泣き虫、成績わるし、「のび太くん」のような王子でした。
1910年05月06日・父のジョージ5世が即位・王位継承権第二位に
1910年5月6日にエドワード7世が死去し、王太子である父ジョージがジョージ5世として国王に即位した。
1913年 海軍士官候補生として頑張る
上半期を、装甲巡洋艦カンバーランド に乗船し、西インド諸島近海、カナダ東沿岸での訓練航海で過ごしたり、海軍士官候補生として戦艦コリンウッドに乗り組み、地中海で3カ月間の訓練を受けた。
1914年 第一次世界大戦が勃発、砲塔担当の士官として従軍、
コリンウッドに乗り組んだアルバートは、第一次世界大戦で最大の海戦であり、最終的な勝敗の帰趨が不明瞭となった、対ドイツ帝国海軍とのユトランド沖海戦に参加し、砲塔担当の士官として殊勲報告書 (en:Mentioned in Despatches) にその名が記載された。
1917年「のび太君王子」頑張るものの、十二指腸潰瘍を患う
アルバートは十二指腸潰瘍を患って1917年に手術を受けたため、以降の戦闘には参加することが出来なかった。
1918年2月 海軍から空軍へ
クランウェル基地 (en:RAF Cranwell) に設立されていたイギリス海軍航空隊のチャージ・オブ・ボーイズ連隊付き士官に任命された。
その2カ月後にイギリス空軍が正式に発足し、クランウェル基地の所属が海軍から空軍へと移された。このときにアルバートもイギリス海軍からイギリス空軍へと転籍している。アルバートは、飛行操縦資格を正式に取得した最初のイギリス王族でもあった。
1919年10月 ケンブリッジ大学へ
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し、歴史学、経済学、市政学を一年間学んだ。
1920年ヨーク公爵に。労働者の福祉に関心を持ち「産業王子」と呼ばれる
ヨーク公爵、インヴァネス伯爵、キラニー男爵に叙せられている。
アルバートは以前にも増して公務に時間を割くようになり、国王の名代として、炭鉱、工場、車両基地などの視察を行っている。このような産業施設の訪問によって、アルバートは「産業王子 (Industrial Prince)」と呼ばれるようになっていった。アルバートは労働条件に興味を持つようになり、労働福祉協会 (en:Industrial Welfare Society) の総裁を務めたこともある。
また、1921年から1939年まで、毎年夏に、様々な社会的階級の少年たちを集めたキャンプに参加していた。
しかしながら、幼少の頃から悩まされていた吃音症に起因するおどおどとした様子と、生来の内気さから、兄エドワードほどには目立った存在とはいえなかった。
健康にはなったものの、吃音も、自信のなさもそのままでした。
1920年「のび太君王子」、「しずかちゃん」に出会う。
当時の王族は、他国の王族と婚姻関係を結ぶことを求められていたが、アルバートは自由恋愛で将来の妻を娶りたいという大きな望みを持っていた。第14代ストラスモア・キングホーン伯クロード・ボーズ=ライアンの末娘エリザベスと出会い、結婚を望むようになる。
1921年 「のび太君王子」プロポーズを断られる
しかしながら、エリザベス嬢、アルバート王子からの求婚を断る。
エリザベス嬢「王族の一員になると、様々なことを犠牲にしなければならないから気乗りしなかった」
1922年 「のび太君王子」またしてもプロポーズを断られる
またしても、エリザベス嬢、アルバート王子からの求婚を断る。
エリザベスの母ストラスモア・キングホーン伯夫人セシリア
「当時のアルバートはエリザベスと結婚できるかどうかで「運命が決まる」と考えていた」
エリザベスを諦められなかったアルバートの数年にわたる求婚の末に、エリザベスはアルバートとの結婚を承諾した
1923年4月26日 「のび太君王子」ついに、エリザベス嬢と結婚
念願かなってエリザベス嬢が結婚に承諾し、ウェストミンスター寺院で結婚式を挙げた
恋愛結婚で結ばれたアルバートとエリザベスの結婚は、王室の近代化の現れであるとしてイギリス国民から歓迎された。
1925年10月31日 大英帝国博覧会の閉幕スピーチで大失敗
健康になり、意中の女性と結婚し幸せいっぱいだったものの、吃音症はなおっていなかった。そのために、アルバートは公式な場での演説を非常に苦手としていた。
ウェンブリーで開催されていた、大英帝国博覧会 (en:British Empire Exhibition) の閉会式が1925年10月31日に挙行され、閉幕スピーチをアルバートが担当したが、このスピーチはアルバートにとっても聴衆にとっても、極めて惨澹たる結果となってしまった。
吃音の克服
アルバートは吃音症を克服するために、オーストラリア人セラピストのライオネル・ローグの治療を受け始めた。アルバートとローグは呼吸法の訓練を開始し、エリザベスもアルバートの訓練に根気よく付き合っている。
このような治療が功を奏し、アルバートはほとんどつかえることなしに話すことができるようになっていった。
1927年に公式外遊先のオーストラリアのキャンベラで開催された連邦議会の開会スピーチは成功した。
ついに吃音の問題も乗り越えた。
1926年04月 長女エリザベス誕生
1930年08月 次女マーガレット誕生
ヨーク公一家はロンドンのピカデリー145の邸宅で、いたって平穏な暮らしを送っていた。非常に親密で仲のよい家族だった
しかし、国王一家にとっての問題は、兄のエドワードと、シンプソン夫人の関係だった。
国王ジョージ5世
「長男(エドワード)が結婚しないことと、バーティ(アルバート)とリズベット(エリザベス2世)、そしてイギリス王位に何事も起こらないことを神に祈る」
王は、既婚者との恋愛を続ける長男の王太子エドワードの言動に心を痛めていた。
次号へ続きます。