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続きです。
1936年兄のエドワード7世即位・王位継承権第2位に
父のジョージ5世が死去したため、長兄エドワードがエドワード8世としてイギリス国王に即位した。
しかしながら、即位間もないエドワード8世は、王太子時代から交際のあった離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を望み、議会との対立を深めていく。
当時の首相スタンリー・ボールドウィンは、政治的、宗教的理由から、国王に在位したままでのシンプソンとの結婚は不可能であると、エドワード8世に勧告し、最終的にエドワード8世はイギリス国王からの退位を決めた。
愚痴をこぼし泣き言を垂れる「のび太君王子」
ルイス・マウントバッテンに対して
「これは酷いよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方なんだから。国事に関する書類なんかこれまで一度も見たことなんか無いんだよ。そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやったことの無い人間なんだよ」
アルバートの日記
「ひどいことが起こってしまいましたと母に告げ、私は取り乱して子供のように泣き崩れた」
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ジョージ6世として即位・大英帝国の国王へ
エドワード8世が即位する予定だった戴冠日に戴冠した。
兄が相続した邸宅や王室の財産も、買い戻さなくてはならなかった。アルバートは統治名 にジョージ6世を選んだ。これは父王ジョージ5世の方針を引き継ぐことと、エドワード8世の退位騒動で揺らいだ王室への信頼を回復するという、アルバートの意思の表れだった
第二次世界大戦勃発
ジョージ6世とエリザベスは、ロンドンがドイツ空軍による大空襲にさらされても、ロンドンにとどまることを選択した。
公式には、大戦を通じて国王夫妻はバッキンガム宮殿に居住していたとされているが、夜間にはウィンザー城で過ごすことのほうが多かった。
最初にロンドンが爆撃されたのは1940年9月7日で、このときにはテムズ川北側のイースト・エンドを中心に、およそ1,000人の民衆が犠牲になった。9月13日には二発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し、宮殿で執務中だった国王夫妻が九死に一生を得たこともあった。
王妃エリザベスが「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドに顔向け出来ます」という有名な言葉を言い放ったのはこのときである。国王一家は、戦時中のイギリス国民と等しく危険と貧困を分かち合った。国民と同じく配給物資の制限を受け、ルーズベルト大統領夫人エレノアも、
バッキンガム宮殿滞在中に食事に配給物資が出されたこと、風呂の湯量が制限されていたこと、暖房が入っていなかったこと、壊れた窓に板が打ち付けられていたことなどを証言している。
国王としての責任感と国家国民に対する献身、大戦のストレスで寿命を縮めた晩年
戦時中の心労がジョージ6世の健康を損ねたといわれている。ヘビースモーカーだったことも体調悪化に拍車をかけ、肺がんと動脈硬化などの慢性疾患を複数併発した。体調不良で公務に時間を取れないジョージ6世に代わって、推定王位継承者である長女のエリザベス王女が、さらに多くの公務をこなすようになっていった。
1949年3月
右足の動脈閉塞と、それに伴う手術をうけた。予定されていたジョージ6世のオーストラリア、ニュージーランド訪問は延期されている。延期されたこの訪問は、エリザベス王女とその夫エディンバラ公フィリップが、ジョージ6世夫妻の代理として訪問することで再調整された。
1951年05月
英国博覧会の開幕式には出席できるまでに回復していたジョージ6世だったが、左肺に悪性腫瘍が発見され、9月23日に摘出手術を受けている。
1952年01月31日
周囲の反対を押し切って、ジョージ6世は、ロンドン・ヒースロー空港まで足を運び、ケニア経由でオーストラリアへと旅立つエリザベス王女を見送っている。父と娘は、二度と生きて会うことはなかった。
同年02月06日 死去 享年56歳
サンドリンガム・ハウスのベッドで息を引き取ったジョージ6世が発見された。死因は就寝中の冠動脈血栓症で、ジョージ6世はこのとき56歳だった。
ジョージ6世の死を知ったエリザベス王女は、滞在先のケニアから、女王エリザベス2世として即位するためにイギリスへと舞い戻っている。
同年06月02日、エリザベス二世が戴冠した。
★国が第二次大戦前夜と言う大変な時に、即位し、大戦中は国民と等しく、苦楽を共にした。名君でした。死亡した56歳は日本のサラリーマンで言えば未だ定年前です。
幼少期から見れば、自分の「我欲」を通したのは最愛の女性のエリザベス王大后と結婚したことだけでした。
どこかの国の明仁さんとかいう人には、ジョージ6世の「爪の垢」でも煎じて飲んでもらいたいです。
責任を放棄して国外脱出し、ストレスフリーな人生を送った兄エドワード8世への、不信感は生涯消えていないようでした。
「ストレスフリー兄貴」は、弟の葬儀には出席したものの、その後20年気楽に生活しています。
父親の死後、叔父エドワード夫妻と、英国王室との和解を取り持とうとしたのはエリザベス2世らしいですが、彼女も体の弱い父に、重責を負わせる原因を作ったウォリス・シンプソンについては憎んでいたようです。
それでは命式を見てみましょう。