《視聴率の神!!》
昔は、井沢満が書くということだけで企画は通り、役者は参集していたのですが、時代は移ろいました。
それにしても、今にして思えば「同窓会」というシンプルなタイトルを悪いとは思っていません。話の仕組みが派手だったし。人の脳裏にもいまだ残っています。
昨今の長いタイトルと対照的です。と言いつつ、私が今考えているドラマのタイトルも長く、これも時代の流れでしょう。
そして流れといえば、連ドラだと言えば俳優が喜んで出演するという時代も去りました。作家性より、企画とスター重視に時代がシフトしたので、結果が悪ければ主役のせいだという部分が大きくなり、連ドラだとその転倒の仕方が大きいのです。低視聴率を引きずりながら、最終話まで演じるしんどさ。その後の仕事にも影響する低数字、と俳優には怖い連ドラとなってしまいました。
昔は作家が負う部分が多かったのです。コケれば作家がかなり、責任を負いました。でもだからこそ、ドラマにおける作家が占める部分が大きく、局や世の中からの遇され方など、今の作家さんたちには想像の埒外でしょう。
記者発表のときには、私のために会場のホテルの一室が用意されていました。会見場に赴く、わずか10分間の待ちのためにだけです。
黒塗りの車での送迎は当たり前で、車が到着する頃には建物の前に製作の方々が立ってお待ちでした。
そして翌日のスポーツ紙の見出しは、出演スターではなく井沢満です。
「視聴率の神様、井沢満新作発表!!」とでかでかと。
そんな時代を知る、私が最後の現役作家(の一人)です。
私の先輩格である倉本聰さんや、山田太一さんがまだお書きですものね。
私よりなお、作家の華やかな時代をご存知です。
以上
《イザーマンのNHK連ドラの視聴率の惨状・視聴率の疫病神》
絶対に落とすはずのない「リメイクドラマ」の「君の名は」でのまさかの大惨敗。当時の歴代最低を記録。責任を取らされ、プロデューサーはクビ。
https://web.archive.org/web/20180125153944/https://ja.wikipedia.org/wiki/君の名は
1991年版(NHK連続テレビ小説)
君の名は ジャンル ドラマ 放送時間 15分 放送期間 1991年4月1日 – 1992年4月4日(全312[6]回) 放送国 日本 制作局 NHK 脚本 井沢満ほか 出演者 鈴木京香
倉田てつを
布施博
田中好子
平田満
宍戸開
古舘伊知郎
村田雄浩
高品格
中原ひとみ
加藤武
佐々木すみ江
宍戸錠
蟹江敬三
金田龍之介
佐藤友美
樹木希林
橋爪功
加藤治子
いしだあゆみナレーター 八千草薫(語り) 時代設定 1945年 – 1955年 テンプレートを表示 1991年4月1日から1992年4月4日まで、NHK連続テレビ小説30周年記念作品(第46作)として放送された(連続テレビ小説では、1983年度の『おしん』以来の1年間放送)。
解説
年々視聴率が下降を続けていた連続テレビ小説のテコ入れとして、1975年以前の原点に戻り放送期間を1年間とした。千葉県野田市に1億円をかけ数寄屋橋のオープンセットを造るなど、異例の予算が組まれた。原作は一世を風靡した作品でありそのため前評判は大変高く、視聴率が50%を超えるのではないかともいわれていた。
しかし、最高視聴率34.6%、期間平均視聴率29.1%(1991年 – 1992年の記録。関東地区、ビデオリサーチ調べ)[7] とも、本ドラマ終了時点での当時の歴代最低を記録した。
転載以上
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その時のプロデューサーは小林由紀子。
https://web.archive.org/web/20170210180143/https://ja.wikipedia.org/wiki/小林由紀子
経歴
白百合短期大学(現・白百合女子大学)卒業後1960年、日本放送協会に入局。多数のテレビドラマのプロデュースを手がけ、ヒットを連発する。1990年、エランドール賞協会賞受賞。後におしんのプロデューサーとしての資質をかわれて、制作部ドラマ部長に昇進。他にも多くの好評ドラマに関与し、NHK大阪局制作の朝の連続テレビ小説「京、ふたり」が、大阪局制作としては尋常ではない程の高視聴率だった為、ドラマ部長から女性初の編成部長に昇進。しかし、「君の名は」の視聴率と局内においても批判を浴びて退職。
退職後も、第一線に立たれているようですが、「君の名は」の失敗が退職に追い込まれた原因であることは間違いないようです。
あくまでも、公開情報と客観的な事実関係からみると。
《一世を風靡したドラマのリメイクが失敗するのは脚本家が無能だからだ》
「君の名は」は往年の2枚目俳優の佐田啓二と人気女優の岸恵子による大ヒット作です。
1953年の初回を見た年齢層の視聴者には、その感動が脳内に刷り込まれていたはずです。そして、親の年齢層の人から、話を聞いた視聴者も期待が大きかったはずです。
既に、巨大な実績がある作品の「リメイク版」がオオゴケするのは、如何に脚本家が無能だったかという、何よりも説得力ある証拠になるでしょう。
★プロデューサーの脚本家の人選の失敗。
あくまで推測ですが、このプロデューサーは、脚本をイザーマンで、「ごり押し」した可能性があります。
また、普通民間企業なら、1億円の予算をかけた大プロジェクトが失敗に終われば、部長以上なら、解雇が普通です。
それを、「自己都合退職」なら、NHKは、甘すぎます。
《言い訳に終始する男は、組織と取引先から見放され信用されなくなる》
イザーマンの言い訳です。
「君の名は」は私が何度もお断りして、頼み込まれ書いた脚本で当時、視聴率が思ったほど稼げなかったというのは事実ですが、それは世の中の大きな転換点となった時期で
「世の中の大きな転換点となった時期で」は嘘です。
それでは、NHKの連ドラ全シリーズの、一覧と視聴率の実績を見てみましょう。
《NHKの朝の連ドラとは、戦後日本人が出勤前の時刻表代わりに見続けてきたもの》
1961年の放映開始以来、朝8時15分からの15分間、男なら、朝の出勤前、ネクタイを締めながら、子供はランドセルに文具を入れながら、母親は朝ごはんの食器の後片付けの前に、見続けてきたものです。
私も1966年の「おはなはん」以降記憶があります。
主役の樫山文江は、嫌みがなく好感度抜群の若手女優でした。
夫役の高橋幸司はその後実力派俳優として飛躍していきます。
イメージとしては、原田知世のデビュー当時、時代背景は、バブル直前の南野陽子の「ハイカラさんが通る」によく似ています。
それ以降の視聴率の推移を見ればわかるように、人気があれば50%超えは普通。
期待外れでも、45%以上はキープしています。
しかし、「悪目立ち」するのは、1985年の「一番太鼓」で井沢満脚本。
39.9%で、NHK連ドラ史上初の40%割れの汚点を残しました。
しかし、その次の回の、斎藤由貴主演の「はね駒」は49.9%で、10ポイント以上も跳ね上がりました。
これは、脚本家の能力の差以外の何物でもありませんね。
その後も50%超えが何度も出ています。
40%割れは起きていません。
これが「時代の転換期」でしょうか?違うでしょ。
《NHKの連ドラに「不吉な悪運」をもたらした「疫病神」イザーマン》
しかし、イザーマンが初めて「汚点」を残して以来、「国民番組」のNHKの朝ドラに「悪霊」がとりついたようです。
ついに1990年、他の脚本家が、イザーマン以来の40%割れを起こします。
そして、それにとどめを刺したのが、再びイザーマンの1991年の「君の名は」の34.7%です。
★しかし、それが「脚本家の無能」であることの証拠は、次の回に、橋田壽賀子が「女は度胸」で45.4%を叩き出しています。
なんと、10ポイント以上の回復ですよ。
《脚本家の人望の有無》
決壊寸前のようなダムの連ドラを食い止めたのは、「渡鬼」で有名な「橋田ファミリー」の奮闘でもあります。
「橋田ファミリー」の筆頭の泉ピン子が主演で頑張ったからです。
この先生のためなら、と意気に感じて頑張る俳優、女優を配下に持っている橋田壽賀子のような「大脚本家」は強いです。
泉ピン子なんか、私が大学時代は「ウィークエンダー」という芸能ワイドショーのレポーターに過ぎませんでした。いわゆる「色物」タレントです。
正直、あそこまで芸能界で出世するとは思いませんでした。
その「隠れた資質」を発見し、開花させたのが橋田壽賀子です。
ピン子も橋田と出会わなければ、もっと早く芸能界から消えていたでしょう。
イザーマンの言う「時代の転換点」はもっと遅く来ています。
1994年、橋田壽賀子でも、30%をとれなくなったこの時が転換点です。
★その理由は、民放地上波の成長で、視聴者にNHK以外の選択肢ができたからです。
今、40歳未満の人は、テレビ朝日がNET(日本教育テレビ)というマイナーなテレビ局だった時代を知らないでしょう。
1970年代までのフジテレビは、万年赤字体質の産経新聞同様、つまらないテレビ局でした。
民放で力があったのは、「報道とドラマ」のTBSと、巨人軍とプロレスを持っていた日本テレビくらいでした。
信じられないかもしれませんが、昭和40年代まで、九州では福岡県を除き、テレビのチャンネルは、NHK総合放送と、教育テレビ、民放一局のみの3チャンネルという時代があったのです。
それが、21世紀が近づいて、東京ではテレビ東京まで、参入するようになると、事項表代わりの、NHKの朝ドラは不要になりました。
私も、21世紀が近づいたころには、出勤前はフジテレビの「めざましテレビ」を見ていました。
だって、フジ全盛期で、女子アナも可愛い人が多かったからです。
★この「見苦しく」言い訳する様は、昨年の抗争初期、我々が、カナダの足立区に住む親父と戦っていたころ、姿をくらまして、突然現れ、読者から問い詰められ、弁解に終始した銀蠅トド子=イザーマンと同じです。これで、ますます、同一人物であることの証明になりましたね。
「勤め人」なら、民間企業でも公務員でも、失敗の責任を反省せず、言い訳に終始する男(あ、オカマか)は、組織から、見放されます。
脚本家のようなフリーランスなら、取引先=テレビ局の信用を失い、二度と注文は来なくなるでしょう。
《NHKの朝の連ドラの「生命」を断ち切ったイザーマン》
いずれにせよ、NHKで、「リメイク」という「アシスタント脚本家もどき」の仕事しかしていなかったイザーマンが、1985年に連ドラに侵入して以来、「白蟻」の様に、床柱を食害し、「時代の転換点」よりも早く、連ドラの声明を終わらせたのは、動かしようのない事実です。
イザーマンが、この事実を否定したければ、今からでも「無給」でNHKの連ドラの脚本を請け負って、視聴率50%超えを叩き出すしか道は有りません。
《イザーマンは脚本の失敗で、汚名をかぶせられた女優の責任も取るべきだ》
君の名はのヒロインは、鈴木京香でした。
この人は、既にバブル絶頂期の1988年からテレビに出始めていました。
この仙台出身の完璧な美人でプロポーション抜群の若手女優は、この連ドラをステップボードとして、大きく羽ばたく予定でした。
こけるはずのない「リメイク番組」でした。但し、脚本家さえイザーマンでなければ。
イザーマン脚本の失敗は、鈴木京香の芸歴に「連ドラで視聴率をとれなかった女優」という汚点を残しました。
あの惨状とも言える視聴率は、テレビ界を牛耳る「電通」からみれば鈴木京香の「潜在視聴率」にマイナス評価をつけたことは間違いなく、このスケールの大きな東北美人の女優が開花するのを遅らせました。
イザーマンはブログで、鈴木京香のことを「京香ちゃん」と呼ぶほど若いころから知っている、自宅にも招いた、と自慢していますが、鈴木京香本人にしてみれば、「君の名は」思い出したくないドラマであって、イザーマンも忘れたい台本屋でしょう。
しかし、不思議な脚本家である。
運は悪くないと思う。しかし、チャンスはふんだんに与えられているが、結果が、ことごとく出せない。
例えば、2メートル以上の身長のある大柄な人間にあつらえた服や着物を、身長が150センチほどの小男が着ているかのように、運と、本人の実力が、ぴったり一致せず、ちぐはぐしているのだ。
もしかして、疑惑通り、強運だったオリジナルの◯◯満の戸籍と命運を、平凡な別人のイザーが、背乗りしているからではないのか。
続く。