【イザーマンは本当に大分舞鶴高校に在籍していたのか?】
イザーの過疎ブログに驚くべき記事がありました。
ラグビーのことは何も知らない私でも、およそ誰も勝つとは思っていなかった南アフリカを相手に、勝利を得た瞬間を動画で見ると、血が騒ぎます。
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無邪気にこんなことを書いています。また
ラグビーを知りもせず、関心もなかったくせに南ア戦で世界が感動するのにつられて、いきなり応援を始めたにわかサポーターなんですが・・・
イザーマンは大分舞鶴高校卒という「キャラ設定」ですが、大分舞鶴高校のWikiを見てみましょう。
大分舞鶴高校
ラグビー部は、全国高校ラグビー大会において、第54回大会(1975年)で優勝したほか、第53回(1974年)・第63回(1984年)・第83回(2004年)の3大会で準優勝するなど全国でも名立たる強豪校である。
松任谷由実の楽曲「ノーサイド」は、1984年(昭和59年)1月7日に行われた第63回大会決勝戦で、天理高校に敗れた大分舞鶴高校をモデルとして作られたとされている[16]。
とあります。ユーミンの「ノーサイド」のWikiを見てみましょう。
ノーサイド
この曲が生まれたきっかけとなったのは、全国高等学校ラグビーフットボール大会での「伝説の一戦」とされる[1]、1984年1月7日に行われた第63回大会決勝・天理対大分舞鶴戦である[2]。
この試合は、後半ロスタイムに入り大分舞鶴がトライを決めて18-16にまで迫り、決まれば同点で両校優勝となるゴールキックを主将のFB福浦孝二[注 2]が左に外し、その直後ノーサイドの笛が鳴っている。
この光景をテレビで見ていた松任谷が「どんなに悔やんでも、高校生が部活を辞めたら、次のシーズンは、自分と同じゼッケンをつけて駆けてゆく誰かを見ていることになる。その情景が思い浮かんで、ぐっと来てしまいました」として、この曲の着想を得たという。
一方で、歌詞の中に「長いリーグ戦締めくくるキック」のフレーズがある[注 3]ことを踏まえ、『日刊スポーツ』は当時早稲田大のSOだった本城和彦を指して「『ノーサイド』誕生のきっかけの1つ」と述べている[4]。
ユーミンの「ノーサイド」
NHKのニュースでも流れていました。
大分舞鶴高校ラグビー部 ノーサイドから30年 再び花園へ
実は私この試合見てました。九州から久しぶりの決勝進出でした。
当然、他県ですが九州の高校を応援します。
大分舞鶴は、それまでに優勝一回、準優勝一回の実績がありました。当時は毎年のシード校でした。
天理は未知数だけどきっと勝ってくれよ。と心の中で思っていました。
前半優位に進めましたが、後半思わぬ弾みから流れが変わり、逆転され追う展開になりました。
結果は、残念でしたが感動を与えてくれたゲームでした。
当時の九州の高校生や中学生でスポーツに興味のある人は皆、知っていたと思いますし。
六大学のラグビーで早慶明の選手にも、大分舞鶴高校のOBは沢山いたはずですし、実業団でもラグビーをやっていた人は、この高校のことを知らない人は「モグリ」だと思います。
★大分舞鶴高校に電話してみました。
お昼休みでしたが、電話に出てくれた女性の先生は快く対応してくれました。
イザーマンのブログをPCでみてもらい
私「この人、オタクの高校の卒業生だと言っていますがしってますか?」
教師「知りませんけど・・・・・」
私「この記事を読んでみてもらえませんか」
2,3分絶句して
教師「信じられない~あり得ませんよ~」
以下、彼女とのやり取りのポイントをまとめると
- 建学以来、ラグビーを「スクールスポーツ」として、重視し伝統と実績を積んできたこと。
- 県内から身体能力の優れた生徒が争って入部して、レギュラーになることが困難なこと。
- 黒のジャージは「ウェールズ」をモデルにしていること。
- 在校生もOBも毎年、年末から正月明けの「花園」の試合は必ず見て一喜一憂すること。
- 校長も、折に触れて訓示の際には、ラグビーに触れることが多い。
- 六大学には「舞鶴枠」があるが、進学校のプライドとして、浪人しても早稲田を受験する選手もいるとのこと。
教師は「この方、うちの卒業生じゃないと思います」と断言していた。
他県人の私も激しく同意した。
ちなみに、舞鶴高校には「知的障碍者」を対象とした「養護学科」はないそうである。念のため。
《ド下手な台本としての高校時代の思い出》
後年非常に影響を感じる先生が高校にいました。
染谷(そめや)先生とおっしゃる、軍隊経験のある浅黒い、渋いイケメンで、
声に張りがありました。
私は日本史の点数がよかったので、可愛がってもらいました。
ただ日本史も腹から理解していたわけではなく、暗記が得意だったので
試験前に教科書を覚えて、答案用紙に書き込む端から急拵えの知識は
忘却の霧の彼方に後ろ姿を見せて消えてゆく、呼べど叫べど、
ああもう戻っては来ない人、という演歌のような対象が日本史なのでした。
染谷先生が始終口にするのが「憲法はアメリカから押し付けられたんだ。日本が本当に
自主独立するためには、改正しなきゃならんのだ!」
響きのいい声で、熱を込めて語り高校の制服である詰め襟を着た私は
(また、言ってら)と思いつつ、表面は神妙に染谷先生の独演会を
聞いていたのでした。
染谷先生の定番の文言は、「日本は憲法は変えねばならぬ!」
と言った後、私をキラリと見るのが常でした。そして、指名するのです。
「なぜだ?」と起立した私に訊き、私は「アメリカからの押し付け憲法だからです」
と答え、すると染谷先生は「そうだっ」と深く頷くのが、儀式だったのです。
いつも、私をご指名でした。
イザーの生年からいうと、高校時代は昭和36年(1961年)~昭和38年(1963年)になる。
公安調査庁元第二調査部長の菅沼光弘先生の著作によると、GHQが最初にやったことは、先ず戦前の日本史の教科書の日本礼賛的な表現に墨を塗らせること。
これは、生徒自身にやらせたらしい。菅沼さん本人もやったそうだ。
次にやったことは、全国の教師で若く優秀な教師を集めて、徹底的な「自虐史観」に洗脳したということ。
私は、先ず文科省の高等教育担当者に電話で聞いてみた。
イザーの記事は口頭で伝えて意見を聞くと
担当者は「具体的な教授方法については、現場に任せてありますから、各都道府県の教育委員会に聞いてください」とのこと。
鹿児島県教育委員会に聞くと、
「無理だと思いますよ。「憲法変えなきゃならん」なんて授業で教えるのは。大分県さんは日教組が強いし。だからと言って極端な左寄りの教育も許されませんよ。当県では無理です。試しに大分に聞いてみたらどうですか」ということで、再度聞いてみた。
大分県教育委員会の担当者には、直接PCで、イザーの記事も見てもらってあり得る話なのか聞いてみた。
担当者「無理ですね。「学習指導要領違反」です。ここに書いている教師の授業内容を、例えば廊下から、校長や、教頭、らが耳にした時点でアウトです。幹部が耳にしなくても、父兄から話があると、その教師は、校長や教頭、学内の会議で、厳重に注意します。その報告書が教育委員会に届いた時点で、その教師は懲戒免職ですね。この記述だと、長期間続けているようですが、校長や教頭の責任問題にもなりますから、先ず長期間職に居続けることは不可能です。」
私「舞鶴高校はおたくの県で有名な進学校ですが、この「染谷」という先生は実在したのですか?」
担当者「個人情報にはお答えできませんが、大分にはたまに見かける姓ではあります。しかし、多くは有りませんよ。そして、学習指導要領は、「行政指導」ではありますが、法的拘束力もあります。最高裁の判例もありますよ。」
私「その判例番号はわかりますか?」
担当者「そこまではちょっと・・・「伝習館高校」で検索してみてください。」
そこで切れたので、私は早速ネットで検索したら出てきた。
学習指導要領の法的位置付け・・・・・Wikiより
https://web.archive.org/web/20180221004533/https://ja.wikipedia.org/wiki/学習指導要領
各教科の単元の構成やその詳細が指示されているが法令ではない。しかし学校教育法施行規則に基づいて定められているため、その効力については議論があるが、伝習館高校事件の最高裁判所における判例によると、一部法的拘束力とするには不適切な表現があるものの、全体としては法的拘束力を有すると判断されている[3]。ただし伝習舘高校は公立高校であり、本判例が学習指導要領が私立学校までをも拘束する趣旨であるかどうかは微妙である。[誰?]
「私立学校まで拘束するか微妙」との記載もあるが、「誰?」と注記されている。
伝習館高校事件とは・・・・・Wikiより
https://web.archive.org/web/20160104121844/https://ja.wikipedia.org/wiki/福岡県立伝習館高等学校
伝習館訴訟[編集]
(最一判平成2年1月18日 / 民集44巻1号1頁)
日本国憲法26条1項に関する訴訟。伝習館高校に勤務していた3人の教師が、授業における教科書の不使用、学習指導要領の逸脱、成績の一律評価をしていたとして、学習指導要領違反、教科書使用義務違反、一律評価による法律違反等を理由に、懲戒免職処分を受け、処分を受けた教師が当該処分の取り消しを求めた訴訟である。最大の争点は学習指導要領の法規性、つまり要領が教師の教育活動の適法性の有無を判断する根拠になりうるかであった。最高裁は法規性を認めた。
日本教職員組合はこの3名の教師が日教組内でも最左派であったこと、生徒の保護者に支持を受けていなかったことなどからこの3名の教師を支援しなかった。
悪質な最左派でも、日教組すら支援せず、懲戒免職となったそうだ。
★ちなみに、大分舞鶴高校は、県立高校であり、「公立高校」である。
例え、「アパホテル」の社長が、「極右私立学校」を創立しても、私は現実的に、この「染谷」的な教員は、懲戒免職になると思う。
《多くの進学校が採用する、山川出版の「詳説日本史」の最新版を見ると》
ちゃんと「GHQが草案を作成し」と書いてある。重要なことはそのあとで、国会で承認され、公布された。とあり、この憲法により、「戸主制度」的な民法から「男女同権的」なものに変わった。等々とある。確かに、私も憲法は変えるべきだと思う。
しかし、現実政治を見ても、三選した安倍政権でも、現在の「政局」を見るに、「9条改正」が関の山であろう。
創価学会の裏切りにより、沖縄は、県知事選と那覇市長選でダブルで負けた。
新閣僚でも、女性唯一の閣僚の片山さつきが、予想通り窮地に追い詰められている。客観的に挙げられてきた証拠でもう逃げ道はないと思う。
辞任ということになれば、「総理の任命責任」は、逃れられないし、野党は追及の手を緩めないだろう。
来年以降の「政局」が正直言って、不透明なのだ。
私が、信頼する元ウクライナ大使の馬淵睦夫氏が、最新の著作で、不気味な予言をしている。
「来年からの統一地方戦で、負けがあると「政局」は流動化し、夏の参院選で負けると衆参の「ねじれ減少」が生じる。その時は、「憲法改正を認める」代わりに「女系天皇」を認めなさいという条件を突きつけられるかもしれない」
考えたくないが、絶対にないとは断言できない確率なのだ。
★さて、結論としては、この様にイザーマンの高校時代の思い出は、「出来の悪いイザーらいしい台本」である。過疎ブログであることをいいことに、捏造話を書き散らしているが、この男は、「ちょっとテレビに出た」という事実を過大に宣伝し、信用を得て、講師や、オフ会で好き勝手に喋りまくっている。
「バンキシャ」のコメンテーター
経歴に、日テレの「バンキシャ」のコメンテーターと書いてある。
日テレの「真相報道バンキシャ」を下ろされた理由について、コメント欄で「自分が読者になり」質問して、「民主党政権時代に民主党批判をしたので降ろされた」と武勇伝ぽくとくとくと語っている。
しかし、左翼系のテレ朝や、TBSならともかく、「親米保守」の読売系の日テレでそれはないだろうと、匿名掲示板で失笑を買っているのを知るべきだろう。
読者もそのイザーマン自身がイザーマン=BBの覚醒記録=銀蠅トド子と「成りすましブログ」をやっていることを肝に銘じて、騙されないように注意したほうが良い。
既に、イザーは、TVのコメンテーターの仕事がなくなって6年もたつ。Wikiの経歴から、コメンテータの職歴を削除するか、元コメンテータに変えないと間違いなく詐称になる。
今後も永久に、テレビコメンテーターの仕事は来ないのだから。
最後に、
私も含めて、読者の教訓として、「ネット社会」になって情報量は飛躍的に増えた。しかし、イザーの様に、「盗作壁」の有る日本のビリーミリガンにとって、そのことは、九州や遠くの地方まで取材にかなくとも、「他人のブログの盗作」「コピペ」「切り貼り」で女に化けたり、「多重人格性」を駆使すれば、「犯罪」を犯すことは極めて容易になった。
先ほどの「染谷」という妄想の教師でも、「大分県に多い苗字」や、大分県人のブログで盗用すれば、数秒でできる。
今後も監視が必要だと思う。