《有り得ない「多重人格者」の「脳内会話」(爆)》
今回のように、医者に言わせたり、ある時は、警察にも言わせる。
有り得ない「三文台本」だ。「香港」での「工作員訓練期間」の賜物だろう(爆)
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《朝鮮語のボキャブラリーに滅茶苦茶詳しい(爆)》
こう言っちゃなんですが、タッパはあるのですが、韓国では
必須のモムチャン(肉体美)でもなければ、美貌でもなく
一重の地味な顔なんです。
★「モムチャン(肉体美)」か~
そう言えば、一時有ったな。「モムチャンダイエット」
https://web.archive.org/web/20160116102721/https://matome.naver.jp/odai/2142259794832422701
ネットで目にしただけだが・・・・・・・
カパラッチ(caparazzi)
韓国における「申告」あるいは「カパラッチ(caparazzi)」と呼ばれる密告制度は、果てはタバコの投げ捨てを撮影してスマホの専用アプリで「申告」、報奨金がもらえるまで、細部に及んでいるようです。
「ほんまかいな?」と思って調べるとありましたよ。
https://web.archive.org/web/20181113125927/https://matome.naver.jp/odai/2133345149212930201
《極めつけは「韓国歌謡曲」を韓国語でカラオケで歌う》
私の歌の演目は「漁火恋唄」「釜山港へ帰れ」(日本語と韓国語)
再びこの魚拓
以前、韓流のスターさんを迎えて脚本を書くことになっていて、そのために釜山港に帰れを、打ち上げ用のカラオケとして韓国語で覚えたのですが、企画自体が流れ、歌う機会もなく終わりました。
「釜山港に帰れ」とは・・・・・Wikiより
「釜山港に帰れ」
日本では1983年、チョー・ヨンピルが来日時にNHKで歌い注目され、16人の歌手による競作となる[
この歌の歴史は長いのですが、日本に持ち込んだのはチョーヨンピルです。
https://web.archive.org/web/20180108002504/https://ja.wikipedia.org/wiki/チョー・ヨンピル
経緯
1969年、カントリーグループ「エトキンズ」のリーダーとしてデビュー。エトキンズでの担当楽器はギターだった[2]。1975年にソロに転向し[1]、1976年に『釜山港へ帰れ (돌아와요 부산항에)』が韓国で30万枚を売り上げる大ヒットとなる[3]。
1982年には日本でもデビューし、「釜山港へ帰れ」(CBSソニー発売)や「想いで迷子」(ポリスター発売)などがヒットした[1]。1987年、『NHK紅白歌合戦』に韓国人歌手として初めて出場を果たし、1990年まで連続で出場した[4]。
経歴は省略しましたが、「韓国の大歌手」です。
私が、初めてこの歌を知ったのは、社会人になって最初、NEC時代の直属の部長が、忘年会で突然、歌ったからです。
その上司は、数年の韓国駐在経験があり、思い入れが有ったのでしょう。
昭和10年代初期の生まれですから、とっくにリタイアして、今はかなりの御年輩です。
昭和40年代の初期に、韓国に駐在して、当時の「三星電気」現在の「サムスン電子」を立ち上げた功労者でした。
ただ、たまたま、彼に聞いたのは、その時代の韓国の財界人は、みな、戦前の日本語教育を受けており、ソウル市民も日本語が達者で、特に「朝鮮語」を覚える必要に迫られなかったそうです。
ですから、カラオケで歌った時も日本語でした。
こんな歌です。
日本語で歌うと
私は今でも、そうですが、韓流にも、K-POPにも興味が無いので、知識として知っていただけです。
ただ、大ヒット曲で、その後もカラオケで歌う人は多かったでしょう。
しかし、余程、物好きでもない限り、わざわざ韓国語で歌う人はいなかったと思います。
何故なら、チョー自身が、日本語で歌っているし、日本人の歌手も多数カバーしたからです。
在日の人も、「朝鮮語」が流暢でない人は恐らく日本語で歌ったと思います。