「西新井事件」とチェ・スンチョルの詳細についてはTBSの報道によると
北朝鮮工作員による背乗り(はいのり)
https://web.archive.org/web/20181129174359/https://blogs.yahoo.co.jp/kaiyoubunkaazia/15367509.html
小住(こすみ)健蔵さん、終戦から3年後の1948年一家7人で樺太から函館へ引き揚げてきた
当時15歳、両親と4人の妹と共に引き揚げ者用の住宅で暮らした家族思いの兄だった
小住健蔵さんの妹(兄は)優しい人ですひとつのお菓子でも必ず分けてくれますから。
東京へ向かったのは、1961年3月28歳の時だった
東京の会社へ就職が決まり小雪が舞う中青函連絡船で旅立った
その後連絡が途絶え、家族は長い間安否を知る事が無かったが
1980年4月、小住健蔵さんの戸籍が函館から東京足立区へと移されていた事を家族は初めて知った
妹のきよこさんは不審に思いながら、電話番号を調べて連絡を入れた
すると
小住さんの妹きよこさん。小住健蔵の名前で確かに電話は通じた
だけど本人は働きに行ってるからという話で・・・
同居人を名乗った男は、小住健蔵さんが独身で日雇いの土木作業員の仕事をしている、などと告げた。
函館を離れ、兄は東京でどんな暮らしを送っているのか気にかけている中、1985年に事件は発覚した。
警視庁公安部は、北朝鮮のスパイ組織を摘発。押収品の中に小住健蔵さん名義のパスポートがあった。しかし、写真は小住さんとは全く別の眼鏡をかけた男だった。
北朝鮮の大物工作員が小住健蔵さんに成りすまし、小住さん本人は行方不明となっていたのだ。
小住さんの妹。
まさか自分の身内がそういうことに―(戸籍を)持っていかれるとは思ってないし
もう日本のどこかで殺されているか(北朝鮮に)連れて行かれてどうにかされてる
別人に成りすます行為を警察用語で背乗りと言うが、西新井事件はその背乗りが明らかになった、最初の事件だとされる。
以上
★怖いですね~
イザーマンように、極度に虚栄心と自己顕示欲の強い男が、世間に名を知られるようになった後、「故郷大分」に決して「錦を飾ろうとしないところが異様」なんですよ。
故郷とキャラ設定した「大分」に実母なんていませんよ(笑)
★このことは、小和田雅子の母方の曽祖父の海軍中将の江頭安太郎が、生涯、故郷佐賀に一度も帰郷しなかったことにも通じるんです。
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《中国朝鮮族の著名人の実例》
尹東柱(インドンジュ)とは・・・・・Wikiより
https://web.archive.org/web/20181130030851/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E6%9D%B1%E6%9F%B1
当時の中華民国の間島(現・中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州)生まれの詩人。
元々は咸鏡道出身で本貫は坡平尹氏。号は海煥(ヘファン、해환)。日本名は平沼東柱[。
朝鮮の咸鏡道から旧満州に移住してきた朝鮮(韓)半島出身の詩人。
京城(現ソウル)の延禧専門学校の文科で朝鮮語を学んで卒業後の1941年4月渡日、立教大学に入学するもその年の秋同志社大学英文科に編入
同志社大学在学中に治安維持法違反で逮捕され懲役2年の判決を受け服役中に死亡した。
朝鮮語禁止や創氏改名が強制されていたと映画作品など韓国ではされているため、「言葉と文を失い、名前まで失った時代」に生きた殉国者として高い評価を受けている。
以上
坊主頭に詰襟の学生服を着た容貌を見て如何ですか?
出自を知らなければ、そのまま、戦前の「青春スター」でも通じそうです。
イザーマンのような、チビで短足で、頭がでかく豚のように太った気持ち悪い生き物とは違うでしょ(笑)
半島人とはまた違った、日本人に近い容貌の人もいるのです。その点、「工作員」にはうってつけでしょう。
《次に自称弟、井澤勇治の正体を考える》
最初に名前を見たとき、「ユウジ」の勇治の漢字の組み合わせに違和感を感じました。
私の知っている、友人や知人の「ユウジ」は、裕二であったり、雄司がほとんどであったからです。
朝鮮人の男子が好む漢字は「剛」や「勲」「勇」が多いです。
故高倉健の本名の小田剛一、張勲の張本勲、元ヤクルトスワローズの韓国人投手、イムチャンヨンの林昌勇などです。
井沢姓の関東での分布を見てみましょう。
井沢姓の関東での分布
https://web.archive.org/web/20181129141414/https://name.sijisuru.com/Area/map/%E4%BA%95%E6%B2%A2
東京、神奈川、千葉、埼玉が突出して多いです。
そして、東京都の中では、大島町(伊豆大島)についで、足立区、板橋区が多いです。
《東京都のコリアンタウンを見る》
足立区
関原・本木・西新井一帯には、荒川放水路の建設労働者の飯場に起源を持つ朝鮮人集落が存在する。
西新井は三河島に次いで日本統治時代の朝鮮からの移住者が多い地区であり、戦後は隅田川河川敷を不法占拠して暮らしてきた「バタヤ部落」から移り住んできた人々も加わりスラム化したがその後バタヤ部落は消滅した。
関原・本木の朝鮮人集落では、スリッパやサンダルなどの部品を家内工業で製造するゴム製品製造業が賑わったこともある。
関連施設として、在日本朝鮮人総聯合会足立支部は本木に事務所を置いている。また、近隣地区に属する興野には東京朝鮮第4初中級学校がある。東京23区中、在日朝鮮人の人口が一時期最も多いとされたこともある(2010年の統計によると23区では新宿区に次いで2位であり、人口比率では4位である)。
以上
在日帰還事業とは・・・・・Wikiより
1950年代から1984年にかけて行われた在日朝鮮人とその家族による日本から朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住のこと。
北朝鮮では帰国事業と呼び、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が推進した運動という側面からは帰国運動または帰還運動と呼ばれる。
以上
「在日帰還事業」によって、日本に帰化済みで、戸籍を持つ、帰化朝鮮人家族も多く、北朝鮮に帰国しました。その時に、「井澤」姓の日本国籍を、必要とする在日に売ったとしても、不思議はないでしょう。
そして、当時の世相を描いた、吉永小百合の「キューポラのある町」の埼玉県川口市は、この帰還事業で朝鮮人の夫と帰還した「日本人妻」の多い所です。
2017年4月22日の記事
もう半世紀、東京に暮らしているのに降り立ったことのない街はまだ一杯あります。
東十条もその一つ、初めて訪れました。
この地にある「篠原演芸場」で、大衆演劇研究家でいらっしゃる橋本正樹さんの出版記念祝賀会が行われたので、顔を出させて頂いたのでした。
私は、朝ドラを3回書いていますが、その一番初めての作品「いちばん太鼓」で大衆演劇の世界を描き、その時監修を担当してくださったのが、橋本正樹さんです。
初めて歩く東十条は、東京から遠い地方の街のようであたかも、長い旅の後に降り立った土地のようでした。
私は、歌舞伎とか落語、そして大衆演劇など着物がまるで肌のように馴染んでいる人々が集まるところには、決して着物を着て出ないようにしているのですが・・・・・恐れ多くて・・・今回、初めて着て行ったのは、多少図々しくなっているからでしょう。
以上
- 北区:戦後、陸軍施設跡地に屑鉄集めのバタヤ部落や朝鮮学校が続々できあがり、十条台には朝鮮大学校に次ぐ規模の東京朝鮮中高級学校がある(最盛期には生徒数3000人にのぼった)。
足立区、荒川区、北区は、朝鮮部落が多い土地です。行ったことは有りませんが、進んで行きたい土地ではありません。
オオゴケした汚点のNHK連ドラ「いちばん太鼓」のイメージの土地とはいえ、同胞、同民族として本能的に引き合うものがあるのでしょう。