《イザーマン「背乗り疑惑」が強まる(驚)》
イザーマンのWiki
https://web.archive.org/web/20181202054552/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%B2%A2%E6%BA%80
終戦に伴い、0歳の時に居留日本人の引揚船でもともとの郷里である長崎へ帰り、4歳までを過ごす。
大分県立大分舞鶴高等学校卒業。早稲田大学文学部仏文科中退後、オーストラリアへ渡る。
帰国後、NHKのラジオドラマのシナリオコンクールに佳作入選したのをきっかけとして、脚本家の道へと進む。
とある。
イザーマン本人のブログ
2015年11月27日の記事
https://web.archive.org/web/20181202045149/https://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/42acc2022c6d6f4fc690b4e845511100
わたくしが二十歳前半の頃、ワーキングビザを取って豪州に渡った。
その時、わたくしは桜田門の警視庁に呼び出され、手形を取られ登録された。
(中略)警視庁で指紋の押捺どころではない、手形を取られた時わたくしが思ったのは、ああこれは自分が豪州で犯罪を犯した時に役に立つのだな、ということであり、そのことに対して差別感など持たなかったし、犯罪者予備軍と思われた、とも思わなかった。
日本人の面汚しになるようなことはすまい、と気を引き締める契機と捉えた。
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《豪州にはワーキングホリデーで行ったのだろうか?》
ワーキングホリディーとは・・・・・Wikiより
2国間の協定に基づいて、青年(18歳〜25歳または30歳)が異なった文化(相手国)の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労をすることを認める査証及び出入国管理上の特別な制度である。
原則として、各相手国ごとに一生に一度しか利用できない[。
査証に関する申請条件などは絶えず変化しているため、申請にあたっては、各国の大使館や出入国管理が開設している公式サイトで、公式な情報を確認することが重要である。
以上
非常に優雅で、「観光目的で生き、遊興費用は、軽労働で得た賃金で賄う」というイメージだが、歴史を確認すると・・・・・・
歴史
日本政府は、次の各国とワーキング・ホリデー制度に関する外交上の取極・協定を結んでいる。日付は発効日。
- 1980年(昭和55年)12月1日- オーストラリア(口上書交換による取極)
以上
イザー「わたくしが二十歳前半の頃、ワーキングビザを取って豪州に渡った。」
★ワーキングビザは、1980年にやっとできた制度である。イザーは、いったい、何歳なのだ??
《オーストラリアの白豪主義と移民の歴史、対日感情》
昭和30年代後半生まれの私は、中学校の「社会科」で、「オーストラリアは、有色人種による差別が厳しく、移民を認めず対日感情もよくない。これを「白豪主義」と言います」と習った記憶がある。今は死語かもしれない。40台未満の若い読者の人は教わっていないかもしれないが、検索するとあった。
白豪主義
オーストラリアにおける白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策である。狭義では1901年の移住制限法制定から1973年移民法までの政策方針を指す。広義では、先住民族アボリジニやタスマニア州のオーストラロイド系住民やカナカ人などのメラネシア系先住民[1]への迫害や隔離など、オーストラリアにおける人種差別主義の歴史全般を指す。
以上
端的に歴史を要約すると
- 1833年、大英帝国が「奴隷制」を廃止→オーストラリアの労働力が不足
- 北京条約;アヘン戦争とアロー号戦争で、英仏が清朝に勝利。
イギリス植民地で、中国人労働者を使用させることを清朝に認めさせた。
それまで、清朝は、「海禁政策」を国是として、移民を認めていませんでした。
- 中国人移民の大量流入。オーストラリアのゴールドラッシュと相まって、中国人労働者の需要は急増。
- 白人労働者の反発・・・低賃金で働く、中国人移民に職を奪われるため。
- 1900年、日英同盟締結後、日本人の移民をイギリス本国が認める。
主に、真珠養殖者や、農業技術者。しかし、オーストラリアの首相は「日本人は優秀であるがゆえに危険だ」と反発。
- 大東亜戦争で、日本軍がオーストラリア北部、ダーウィンなどへの爆撃もあり、戦後しばらくは、対日感情の悪化と、日本の復興を危険視する風潮があった。
慢性的な労働力不足と、アジア人、特に中国系移民に職を奪われる白人系国民の恐怖心。
法制度的な「白豪主義」=「移民排斥法」が廃止されるのはやっと1973年。
それなのに、イザーマンは、何故、1967年までに豪州に行ったのか?