《イザーマン、隠せぬ「無知・無教養」と隠そうとしない「変態的性嗜好」》
今回の「城攻め」は、
①本丸が落ちても終わらない。
②捕虜は取らない
③城が落ちたら、石垣も撤去して更地にする
➃敵の領地の「耕作地」には、塩をまいて永久に作物を栽培できぬようにする。
★ローマがカルタゴに対してやった「カルタゴ方式」でやります。
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《自称脚本家井沢満、早稲田大学文学部仏文科中退の学歴詐称を認めた(驚)》
前の記事で、自ら早稲田大学の「在籍証明書」を取得し「井沢満のブログ」にアップするよう求めました。期限は一昨日の12月7日(木)のPM21時まででした。
とっくに期限は過ぎています(爆)
ドラマの脚本の仕事なんて現在全くないのだから、暇でしょうがないはず。
現住所の「神田エリア」からは、早稲田の新宿区戸塚のキャンパスまで、楽に歩いていける距離。
タクシーで往復しても料金は知れている。
★何故、「在籍証明書」を取得できなかったのか?
「本人確認」を証明できないために、早稲田大学の学生課に証明書の発行を依頼できなかったのだ(怒)
本人確認とは・・・・Wikiより
行政庁等に対して公文書の申請や公的機関などで手続きをする際、及び犯罪収益移転防止法における特定事業者と取引をする際に、当該行政庁等、公的機関及び特定事業者が、相手方が本人であることに間違いがないことを確認することをいう。
本人確認が必要とされるケースとして、以下のような例がある。
当初は本人確認が不要であったか、または簡易な手続きのみ(公文書を提示せず、自己申告で住所・氏名など最低限の個人情報を記入させるなど)で済ませ、提供されていたサービスが多く見られたが、次第に詐欺などの犯罪行為へ悪用されるケースが増えてきたため、後から本人確認を導入し、また犯罪収益移転防止法などの法律で義務づけるケースさえ出てきた。
このケースから、セキュリティや危機管理を軽視していた感も否めず、なりすまし防止のため、本人確認の重要性が改めて認識される様になった。
以上
在籍証明書とは・・・・・Wikiより
学校等の教育機関において必要な課程を修了し、卒業したことを証明する書面。
学校教育法に定める学校の卒業証明書
学校教育法に定める学校の発行する卒業証明書は、卒業証書や学位記のように1枚のみ交付、再交付不可というような条件はなく、必要に応じて申請することによりいつでも枚数無制限に交付されることから、対外的に卒業を証明したい場合(進学時や就職時)に利用されることが多い。
場合によっては厳封されていることがあり、その場合は開封すると無効になるので注意が必要である[1]。あるいは、厳封の如何に関わらず、改竄防止処理を施して、複写機でコピーしたものには、「複写無効」、「unofficial」などの文字が浮き出てくる証明書用紙を採用する場合も多い(この場合は、提出先により、本来は厳封が必要と判断される場合でも厳封不要とされる場合もある)。
加えて、卒業直前に控えた者が同様に不確定ではあるものの間もなく卒業することを対外的に証明するために卒業見込証明書が発行されたり、その他退学証明書、在籍(期間)証明書[2]など在籍期間があったことを証明する書類の発行を受けることができる。
なお、大学院の場合は、「修了証明書」となる。通信教育の場合は「通信教育課程」と表記される。
以上
小泉内閣が成立した2001年に「個人情報保護法」が成立しました。
同年、2001年9月11日に、例の「9・11テロ」が起きてからは、テロリスト、テロ行為の防止、彼らの資金源となる「犯罪収益」のマネーロンダリング防止のために、先ず「金融機関」から、「本人確認」が法的に義務付けられるようになりました。
当時、証券会社にいたからよく知っています。1
①新規の口座開設には、口座名義人本人であることが確認できる公的な証明書無くして、口座開設は不可能となりました。
この「本人であることを証明できる公的証明書とは、健康保険証や、運転免許証などです。
②既に、開設している口座で、「本人確認書類」が徴収できない口座は、即時取引停止、その後は口座の廃止手続きへ。
★「個人情報保護法」と「本人確認制度」の2本立てで、他人の個人情報を不正に取得することができなくなりました。
「個人情報保護法」の成立以前の20世紀までなら、大学の「卒業証明書等」の取得は電話一本でできたと思います。
しかし、現在は大学の事務当局もおいそれとは応じてくれないでしょう。
自分で取りに行くにしても、「本人を確認できる書類」の提示を必ず求められるでしょう。
★運転免許証が「失効」したと自分で言っていましたが、それでは、「本人確認書類」が無いということです。
まあ、今後、在籍証明書をアップした場合は、「よく頑張ったね」とほめてあげましょう(笑)
「東京裁判で、成り行きによっては天皇陛下が処刑されるかもしれなかった、そこから私の人生は始まっている」
2013年6月3日の記事
そもそも天皇家に何の思い入れも持たず、いやもっと率直に言えば反感を抱いていて、しかし、当時を振り返ってみるとそういう「時代」であった。東京裁判で、成り行きによっては天皇陛下が処刑されるかもしれなかった、そこから私の人生は始まっているので、世の中は天皇に対して、敬意を著しく失っている頃だ。
かといって、親がとりわけ反皇室であったわけでもなく、旗日には普通に日の丸を掲げ、また学校でとりわけ皇室を貶める教育がなされたわけでもない。
君が代は詞の中身も知らず、機械的に歌い、校庭の国旗掲揚台には日の丸が翻っていた。
以上
「東京裁判で、成り行きによっては天皇陛下が処刑されるかもしれなかった、そこから私の人生は始まっている」
★子供が天皇家に「反感を抱く」ほど、知性が発達するのは何歳ぐらいでしょうか?
そもそも、自分の記憶を辿れるのは何歳ぐらいでしょうか?
私の場合は、3歳ぐらいまでです。
そして、社会で起きている事件に何らかの「価値判断」を持てるようになるのは、早くとも10歳ぐらいではないでしょうか。
テレビを見て、ニュースを理解できるようになり、新聞も自分で読めるようになれるころでしょう。
それでは、東京裁判を確認してみましょう。
東京裁判・・・・Wikiより
極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。
以上
この裁判での「天皇訴追問題」については
東京裁判・・・・Wikiより
昭和天皇の訴追問題
オーストラリアなど連合国の中には昭和天皇の訴追に対して積極的な国もあった。
白豪主義を国是としていたオーストラリアは、人種差別感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情が強い上に、差別していた対象の日本軍から繰り返し本土への攻撃を受けたこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった[45]。
また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた[46]。エ
ヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。
1945年8月14日に連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)で昭和天皇を戦犯に加えるかどうかが協議されたが、アメリカ政府は戦犯に加えるべきではないという意見を伝達した[47]。
1946年1月、オーストラリア代表は昭和天皇を含めた46人の戦犯リストを提出したが、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドはこのリストを決定するための証拠は委員会の所在地ロンドンに無いとして反対し、このリストは対日理事会と国際検察局に参考として送られるにとどまった[48]。
8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き[49]、
10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された[50]。
アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視され、さらに1946年1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった[51]。
なお、オーストラリア同様イギリス連邦の構成国であるニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した[51]。またソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定した[37][52]。
1946年4月3日、最高意思決定機関である極東委員会(FEC)はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」ことが合意された[53]。
以上
上記のように終戦が1945年8月15日ですから、「天皇不起訴」が合意された1946年4月3日は、終戦から1年も経ってはいません。
イザーマンは、1945年8月6日、朝鮮半島のソウル誕生の「キャラ設定」ですから、未だ0歳時です。「離乳」もしていない赤子に、「天皇に反感を抱く」知性が有るでしょうか?弟の井澤勇治(仮名、金 汚職)も当然生まれていません。
《イザーマン(仮名、金 盗作)の井沢満背乗り説が再燃した(怒)》
本人が記事に書くように「天皇に反感」を抱いていたとすれば、「昭和天皇の訴追問題」の頃に、既に10歳ですから、実際の誕生年は、1935年となり、1945年生まれ、73歳の設定より10歳上の、83歳になります。
そうすると、イザーマンが、毎年コンサートに招待される「日本のオカマ界のドン」の美輪明宏と同い年になります。