続きです。
井沢満と出張整体業を装った「工作員集団」疑惑①
《「清岡」という狂人キャラと高知》
一昨年の夏の井沢満イザーハイノリーズ&カマーズとの抗争の最終局面で「清岡」と名乗る、狂人キャラが銀蠅トド子ブログのコメ欄に出現し、唖然とさせました。
しかし、過去の井沢満イザーハイノリーズ&カマーズの他のブロガーとの抗争でも、この「清岡」は最終局面で必ず出現しています。
詳細は知りませんが、「チョン吉のブログ」の管理人の熊子なる人物との抗争でも出現しています。
「清岡」とは何者か、検証してみました。
先ず「清岡」という苗字について
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清岡姓の全国の分布
https://web.archive.org/web/20190305144633/https://name.sijisuru.com/Area/map/%E6%B8%85%E5%B2%A1
転載以上
御覧のように圧倒的に高知県に多いです。
それでは、清岡姓の由来は・・・・Wikiより
https://web.archive.org/web/20190305145135/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%B2%A1%E6%B0%8F
古代氏族としての清岡氏(浄岡氏・清岳氏)
皇別の清岳氏
姓は真人[1]。皇別氏族であるが出自不詳[1]。延暦24年(805年)坂野王・石野王ら16人が清岳真人の姓を賜与された(『日本後紀』)[2]。
百済系渡来氏族
氏姓は浄岡連、のち清岡宿禰[1]。百済系の渡来氏族。奈良時代の医者である浄岡広島を鬼室集信の孫とする系図がある[4]。
高句麗系渡来氏族
姓はなし。延暦18年(799年)信濃国に住む高句麗系渡来人の下部文代らが清岡姓を賜与された(『日本後紀』)[5]。
土佐の清岡氏
菅原高視の子孫を称した清岡惟泰(1548年 – 1607年)を祖とする。江戸時代に安芸郡田野村(現在の田野町)に郷士または庄屋として在住し、土佐藩に軍資金を出したほど裕福な家であった。
幕末期には安芸郡甲浦の清岡道之助(成章)が武市瑞山を盟主とする土佐勤王党に所属していたとされるが、何らかの事情により名簿からは名を削除されている。のちに道之助が率いる野根山二十三士(野根山二十三烈士)は、土佐藩による土佐勤王党の弾圧により投獄された瑞山釈放の訴えから野根山の戦いを起こし、藩に身柄を捕縛され、田野奉行所へ拘束。その後、一切の取り調べを行われることなく元治元年(1864年)9月5日後藤象二郎・板垣退助らにより安芸郡奈半利河原で斬首となった。 これを知らされた坂本龍馬はひどく悲しんだとのこと。
清岡道之助の子・清岡邦之助は慶應義塾に通っていたが、後に福沢諭吉の三女と結婚して政治家となり、明治政府において特に富国強兵面で貢献した。
現在も清岡家は地主として高知県内に土地を多く所有するが、本家は高知県外に在住]。
転載以上
★基本的には「半島系渡来人」
前の記事の「在日の通名の法則」にも有りましたが、朝鮮人は水を意味する「サンズイ」と「靑」という字が好きなんですよ。
土佐の地元の英雄「清岡道之助」
清岡道之助は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に一瞬ですが登場します。
坂本竜馬の盟友、武市半平太率いる「土佐勤皇党」が政権の座から転げ落ち、刑死目前となったときに、反乱を起こして、一瞬にして鎮圧、斬首されました。
マイナーですが、地元の血縁者にとっては悲劇のヒーローでしょう。
井沢満の昔のペンネームの「光峰」は愛媛がルーツであることを前の記事で証明しました。
また、井沢の好きなマイナーな日本酒の銘柄の「酔鯨」が高知のものであることも説明しました。
★愛媛の井沢満と、「高知」を結びつける「裏キャラ」がいるはずです。