新元号「令和」に関する見解⑤空洞化した中華文明
《既に「空洞化」している「中華文明」》
★「生物学的な「漢人種」」は発見できない。
私が尊敬する台湾系日本人の黄文雄先生の持説ですが、「漢人種」なるものは歴史的にも、生物学的にも確認できないそうです。
唯一、該当しそうなのはこちら
華夏族・・・Wikiより
https://web.archive.org/web/20190404113843/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%A4%8F%E6%97%8F
漢の時代以前に中原の黄河流域に暮らす部族で、漢民族を構成する主体でもあるとされる概念。
紀元前千年くらいに、中国の中原地方(黄河流域)に住んでいたといわれる人たちです。
諸説あって、北方遊牧民族に追われ、中国大陸に四散して以降は記録が無いそうです。
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《いわゆる「中華文明」は南宋の滅亡で断絶した》
これは私の持論です。
金(満州族)や元(モンゴル)に追われて、江南(揚子江以南)に追われた宋王朝は南宋として、持ちこたえましたが、結局元のフビライに滅ぼされました。
約100年後、明の朱元璋により、元朝は北方モンゴル草原に追いやられ滅ぼされました。
《明朝は、中国人の皮をかぶったモンゴル人政権だった》
モンゴル人に支配された100年間、他の支配地域同様モンゴル人のお家芸の「エスニッククレンジング(民族浄化)」を受けていますからね。
反政府勢力を取り締まる全土にわたる「密偵制度」、皇帝の欲望を満たす為の「重税」は、南宋までの「漢人政権」とは異質でした。
明朝が元朝の「延長政権」と言われるゆえんです。
明が滅亡した後も、異民族、満州族の清朝の支配が続きます。
《「易姓革命」が伝統の中国では「文化の蓄積」と「文明の継承」は不可能》
易姓革命とは・・・Wikiより
古代中国において、孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を説明した理論。
概要
天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。
易姓革命論は実体としては王朝交代を正当化する理論として機能していたと言える。
またこのような理論があったからこそ劉邦や朱元璋のような平民からの成り上がり者の支配を正当化することが出来たとも言える。これは西洋において長年に渡る君主の血統が最も重視され、ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興す場合すらあるのとは対照的である。また、日本では、山鹿素行など江戸時代の学者が「易姓革命は結局臣が君を倒すことで、そのようなことがしょっちゅう起こっている中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中華である」と唱えた。
《「易姓革命」とは前王朝の「文化遺産」も全て破壊して「更地」にすること》
★「オールリセット」ですね。
例えば、前の王朝を、広大な土地に築かれた大都市に例えれば、全てを破壊して、「更地(さらち)」にしてしまうことです。
良いものも悪いものも一緒に破壊することです。
これでは「文明の継承」はできませんね。
政権が、豊臣から徳川に代わっても天皇は代わらずに「国体」を維持してきた日本が世界八大文明の一つと定義されたのも当然でしょう。
中国の易姓革命が、モンゴル人という異民族によってなされた南宋の滅亡で「中華文明」は断絶したのです。
中国の歴史では、新しくできた王朝が、前の王朝の「正史」を書く(国史編纂事業)のが伝統でした。
満州人の清朝でさえ、「明史」を編纂しています。
しかし、辛亥革命で清朝を倒した、中国国民党の孫文らは正史である「清史」を編纂しませんでした。
国家公認の「歴史編纂事業」を放棄して現在に至っているのです。
《中華人民共和国は「文明」のない大国》
★「宗教」という社会的インフラを破壊した「文化大革命」
マルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
共産党が政権を握った後も同じでした。
本質は、中国共産党内の「権力闘争」に過ぎませんでしたが、「毛王朝」の皇帝、毛沢東は、仏教にまで八つ当たりして、歴史的な価値の高い寺院も破壊し尽くしました。
《「簡体字」による「漢字文明」の破壊》
https://web.archive.org/web/20190404130934/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%A1%E4%BD%93%E5%AD%97
簡体字とは・・・Wikiより
1950年代に中華人民共和国で制定された、従来の漢字を簡略化した字体体系である。
大学の第二外国語として中国語を選択した人、中国に観光旅行に行った人は良く知っていると思います。
読んで字のごとく、正式な漢字を草書風に崩して簡略化した文字です。
逆に、我々日本人が学校教育で習ったものを「繁体字(はんたいじ)」と言います。
黄文雄先生が讃えているように、日本語は難しい漢字に「訓読み」を発明し、平仮名、片仮名など「表意文字」と「表音文字」を併用した、論理性も感情表現も備えた素晴らしい言語だと思います。
中国語は、漢字だけなので、覚える字数も多く、教育現場も大変だったから導入したのでしょうが、見直し論も出ています。
見直し論
2009年3月3日、全国政治協商会議の潘慶林委員が、簡体字は中国の伝統文化の継承を妨げるとして、10年間で繁体字に段階的に戻すよう提案した。潘は、簡体字は簡略化し過ぎていて漢字本来の芸術性や表意文字としての成り立ちを破壊している、書くのが面倒とされてきた繁体字は今ではキーボードで簡単に入力できると理由を挙げ、繁体字復活は中国と台湾の統一にも有利と政治的な理由も挙げている。
繁体字復活とは別に、行き過ぎた簡略化を修正する見直し論もあるという。潘の提案に対し、中華人民共和国教育部は、簡体字継続は現行法で保護されていると反論している。
私も、潘慶林に賛成です。
欧米人の日本語学習で、彼らが苦労するのが「漢字」でしょう。
元々「象形文字」なので、一つの漢字が「絵」に見えるそうです。
繁体字を簡体字にすることは、一幅の墨絵を台無しにするに等しいと思います。
★韓国も朴正煕大統領の1970年、漢字教育を廃止しました。
韓国人はハングルを「全ての音を表記できる」と威張っていますが、書籍になると、日本語で言えば、全て平仮名で書かれているのと同じで、同音異義語を判別できず、誤読が増え若者の読書量が激減しているそうです。
《中国人観光客の多くが奈良や京都に行きたがるのはなぜか》
奈良の東大寺に行けば、中国では既に見られない、豪華絢爛な唐文化全盛期の大仏や正倉院を見ることができます。
京都に行けば、多くの由緒ある寺院のみならず、唐の都長安をモデルにした都市計画の名残の街並みも見られます。
彼らの多くは、DNAに刻まれた「民族の記憶」に浸っているのだと思います。
《4月1日の海外の反応は「脱中国」が主流?》
https://web.archive.org/web/20190404135533/https://anotherstorysign.com/reiwa/
新元号の令和に対する海外メディアの反応は?初の脱中国が話題に!
CNN
初めて元号の名前を中国の古典ではなく日本の古典から取られた。
元号の由来については詳しく書かれていて、しっかりと脱中国を果たしたことが記載されています。
(後段略)
BBC
ニューヨークタイムズと同様に令和のそれぞれの漢字の
意味を簡潔に、そして引用元は中国の古典ではなく初めて日本の古典から引用されたことを伝えています。
また明治から平成の4時代の意味も併せて記事にされています。
3紙(ニューヨークタイムズは管理人が省略)とも共通しているのは元号の引用元についてです。
令和という新元号の引用元は元来の中国の古典ではなく、日本の古典から引用されたということです。
脱中国が図られたということで驚きをもって伝えられている印象です。
《「脱中国」はそんなに意味のあることなのか?》
私の見解
- 日本は既に世界八大文明の一つの「日本文明」を持っている。
- 「中華文明」の正統な後継者は日本。
中華文明は南宋が滅んだ1297年に中国大陸から消滅したというのが私の見解です。
更に付け加えれば、21世紀の現代、本当の「中華文明」をこの目で見たければ、日本に来て、奈良や京都に行くしかないということです。
数年前、台湾に旅行した時に、有名な「国立故宮博物院」を見学しました。
展示物も素晴らしかったのですが、残念ながら大陸中国人の観光客が多すぎて落ち着いて見学できませんでした。
国立故宮博物院とは・・・Wikiより
中華民国の台北市にある博物館である。この博物館は、中華民国の国立博物館のうちの1つであり、最大のもので、697,000個以上の古代の中国の人工品および美術品を所蔵している。
沿革
中国大陸時代
故宮博物院は、1924年に北洋軍閥の一人である馮玉祥が溥儀を紫禁城から退去させ、1925年10月10日に宮殿内で清朝が持っていた美術品などを一般公開したのが始まりである。1925年当時の所蔵品点検レポートによると所蔵品総数は117万件を超えており、博物院は古物館、図書館、文献館を設けて各種文物の整理をする一方で、宮殿内に展示室を開設して多様な陳列を行っていた。
所蔵品の台湾への移動
第二次世界大戦後、国共内戦が激化するにつれて中華民国政府の形勢が不利になったため、1948年の秋より中華民国政府は故宮博物院から第一級の所蔵品を精選し、第1陣として772箱の文物が、1949年1月には第2陣として3,502箱の文物が、同月に第3陣として1,251箱の文物が台湾に運び出された[1]。したがって故宮博物院の所蔵品は北京と台北の2カ所に別れて展示されている。これとは別に所蔵品の一部は、国共内戦後の中華人民共和国建国後の混乱のため北京に戻すことができず、現在も南京博物院の管轄下で南京に保管されている。
この博物院は、1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命における文化財の組織的破壊から、貴重な歴史的遺産を保護するという役割を担ったが、同時に中華民国政府が中国 (China) の唯一合法的な政府であることの象徴と、日本の統治から離脱したばかりの台湾において中華ナショナリズムを強調するための装置としても中華民国政府に利用されていた。
そのために現在では、早期の台湾独立を求める泛緑連盟勢力の一部から「『台湾国独立』と引換えに故宮博物院の文物を紫禁城に返そう」という主張が出ているが、実現の可能性はほとんど無い。
台湾の「本省人(原住民を除く土着の親日的な台湾人)」は、故宮博物院の存在を迷惑がっていますよ(笑)
彼らにとっては、蒋介石時代の「世界最長の戒厳令」という「悪夢の時代」の産物でしかないのです。
★いっそのこと日本が買い取ってあげればいいんですよ。