書籍化しました
《メイ首相が政治生命をかけた「ブレクジット」-英国のEU離脱とは》
ブレクジットについて、本格的に語るには、専門書を数冊読む必要がありますが、今回は時間がないので、今回は公開情報に限定して語りたいと思います。
Brexit(ブレクジット)とは・・・Wikiより
イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票
イギリスが欧州連合(EU)を離脱すべきかどうかを決めるための国民投票が実施された。
投票権は、イギリスおよびジブラルタルの有権者にもたらされた。
開票の結果、残留支持が16,141,241票(約48%)、離脱支持が17,410,742票(約52%)であり、離脱支持側の僅差での勝利となった。投票率は約72%であった。この結果をうけてイギリスの欧州連合離脱、いわゆるBrexitが決まった。
以上
イギリスのEU加盟については、紆余曲折あったようですが、「EU残留の是非を問う国民投票」を行うことを明言したのは、前の首相のデービット・キャメロンでした。
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《私論;EUの本質とは何か?》
★統一軍を持たない「ドイツ第四帝国」である。
《世界史上の「ドイツ帝国」とは》
(1)神聖ローマ帝国・・・・ハプスブルグ帝国
神聖ローマ帝国とは・・・Wikiより
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家[1][2]。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。
概要
神聖ローマ帝国はローマ教皇に即位を認められたローマ皇帝を君主とした国家である。「神聖ローマ帝国」の名称は1254年からのもので、それまでは「ローマ帝国」「帝国」と呼ばれていた。
理念的には復興した古代ローマ帝国で、帝国とは西ヨーロッパのキリスト教社会全体を覆う概念でもあり、教会と教皇の守護者であるローマ皇帝は最高権威をローマ教皇と二分していた。しかし皇帝が実際に持つ権力は封建制の下で制限されており、フランスやイタリアはやがて皇帝の統治下から離れていった。
皇帝に臣従するドイツ諸侯や都市もまた領地支配における特権を拡大していき、300以上に分裂した教会領、公領、侯領、伯領、帝国自由都市、その他小貴族の領地は半ば独立した政体となった。近世の神聖ローマ帝国は複数の民族から構成されるドイツ地域の国家連合に近いものであった。
高校の「世界史」で教わると普通に混乱しますが、要するに
★ドイツ人、ドイツ民族をリーダーとする「国家連合」です。
《絶頂期、スペインハプスブルグ帝国のフェリペ2世》
父親のカール5世の時に、宿敵フランスに勝ち、イタリアを手中に収めました。
フェリペ2世は、弟のドン・ファンを指揮官として、レパントの海戦でオスマントルコ帝国海軍を破り「地中海の制海権」を握りました。
フェリペ2世の最後のターゲットは、いくらプロポーズしても応じない、エリザベス1世のイギリスでした。
1588年に、フェリペ2世はアルマダ(無敵艦隊)にイギリス遠征させましたが、地中海という波静かな「内海」でしか戦ったことのない、アルマダは大西洋という「外洋」での戦いには不慣れで、ドーバー海峡の海戦で敗れ暴風も有って、壊滅しました。
この敗戦で「ドイツースペインハプスブルグ帝国」は、衰退に向かいました。
そして1806年、ナポレオンに、ライン川以西とイタリアを奪われて、オーストリア皇帝フランツ1世は「神聖ローマ帝国」の解散を宣言して、「ドイツ第一帝国」は終焉をしたのです。
(2)プロイセン・・・・ホーエンツォレルン家
天才ナポレオンにズタボロに負けて、落ち込んでいたドイツ人たちも自分たちも
「統一国家」を作ろうと思い立ちます。
その時、ドイツ民族の統一の手法で民族を二分したのが
・大ドイツ主義
・小ドイツ主義
でした。
大ドイツ主義とは、劣えたりとはいえ、伝統と権威のあるオーストリアを主導に統一しようという考えです。
小ドイツ主義とは、新興勢力で勢いのあるプロイセンを中心に統一しようという考えです。
★「歴史の合わせ鏡」といいますが、ほぼ同じ時期に「近代国家」を作ろうとしていた国が有りました。それは「幕末」の日本です。
奇しくも「明治維新」が1868年。
「ドイツ統一」=ドイツ第2帝国の成立が1871年です。
★例えて言えば、大ドイツ主義のオーストリアが江戸幕府、小ドイツ主義のプロイセンが、「討幕勢力」の薩長の様なものでした。
この2大勢力は、1866年に「普墺戦争」で鉄血宰相のビスマルク率いるプロイセンが、オーストリアを破ることにより、「ドイツ統一」における小ドイツ主義、プロイセンの覇権が決まりました。
しかし、「ドイツ帝国」成立の宣言は、プロイセンのヴィルヘルム1世とフランス第2帝政のナポレオン3世が雌雄を決するまで待つことになります。
続きます。