書籍化しました
続きです。
イギリスを見限り、経済的利益を取った豪州
大日本帝国は、1941年12月、対米英戦を宣戦布告すると同時に、東洋のイギリス支配の象徴たる「シンガポール攻略戦」を開始します。
先ず、マレー沖海戦で、連合艦隊は、空母機動隊による活躍も有り、イギリス東洋艦隊を全滅させます。
これで「制海権」は日本が握りました。
イギリス軍のシンガポール基地から、応援に飛び立ったイギリスが誇る戦闘機ハリケーン、バッファローは一機も生還することはありませんでした。
当時、世界最強の戦闘機「ゼロ戦」と空中戦の末に全て撃墜されたからです。
これで、イギリスは「制空権」も失いました。
★元々、シンガポール要塞は、「海からくる敵」を想定して構築された難攻不落の要塞でした。
そこで、山下奉文(ともゆき)大将率いる第25軍は、同盟国タイの領土を通過し、長大なマレー半島を自転車(銀輪部隊;ちゃんりんこ部隊)で南下し、手薄な陸側から攻略する戦略を取ります。
制海権も制空権も失ったシンガポール要塞には、どこからも援軍は来ません。
要塞を包囲した日本軍からの砲撃と、爆撃機による間断ない猛爆に晒されるだけです。
遂に、8万5千人の、英豪米連合軍は半分以下の3万6千人の日本軍に降伏したのです。
このニュースを亡命先のロンドンで知った後のフランス大統領のシャルル・ド・ゴールは日記に「この日をもって、白人による植民地支配は終わった」と書いたそうです。
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使わないでほしい「シンガポール陥落」の「陥落」という言葉
歴史用語でも何でも、「陥落」という言葉の本来の意味、特に英米、ヨーロッパ人が使用する場合は、「野蛮な「異教徒」により、キリスト教徒の神聖な都市が攻撃され降伏させられた」という意味でつかわれます。
最も、顕著な例は1453年の、オスマントルコ帝国、メフメト2世によるコンスタンチノープル陥落です。
西洋人、キリスト教徒から見た感覚では
- イスラム教徒に、キリスト教国の東ローマ帝国が滅ぼされた。
- しかも野蛮なトルコ人に。
というニュアンスです。
最近は、日本でも「誤用」が定着していますが、「シンガポール解放」と教科書に記述してもらいたいです。
「白人植民地主義」からのマレー人と華僑の解放なんですから。
「シンガポール降伏」で完全に「戦意喪失」したイギリス軍は、侵攻する日本軍とアウンサン(アウンサン・スーチーの父)率いるビルマ国民軍にあっさりと敗れて、インドに逃げ帰りました。
宗主国に逃げられて「置いてけぼり」を喰らわされたのがオーストラリア
イギリスは、もうあてにならない。
アメリカと組んで必死に日本と戦わなくてはならない。
日本海軍がミッドウェー海戦で敗れ、陸軍がガダルカナル攻略を諦めるまでは、苦戦が続きます。
それまで、北部の都市のダーウィンが日本軍の空襲に遭います。
ダーウィン空襲とは・・・・Wikiより
1942年2月19日、オーストラリア史上で最大規模の他国勢力による攻撃が行われた。
後にダーウィン空襲(ウ英語: The Bombing of Darwin)、別名ダーウィンの戦い、英語: The Battle of Darwin)として知られる
同日、計242機の日本軍機が2回に分けてダーウィン湾の市街地、艦船そして市街地付近に建設された2つの飛行場を攻撃した。攻撃は第二次世界大戦中に日本軍のティモール、ジャワ島侵攻を阻止しようとする連合国軍がダーウィンの飛行場を基地とするのを妨害する目的で行われた。
戦後、しばらく残ったオーストラリアの日本軍に対する恐怖症とトラウマ
当時のオーストラリア政府の要人、軍人たちの抱いた恐怖は想像するに余りあります。
★何かにつけては、「兵を出せ」など威張っていて、自分たちを見下していて人使いの荒い、本国のイギリスが自分たちを見捨てて、スタコラ逃げてしまった。
援軍も出さずに、助けにも来ない(怒)
東京裁判で昭和天皇の戦犯訴追と処刑に最後までこだわったオーストラリア
アメリカのマッカーサーや、首席検事のキーナン、イギリス代表に根気よく説得されて、最後には諦めましたが。
しかし、サンフランシスコ講和会議以降は日本と「大人の関係」となったオーストラリア
昭和30年代から「高度経済成長期」に突入した日本経済。
豪州との関係も変わってきます。
続きます。