書籍化されました
《大英帝国のインド植民地統治と比べてみよう》
アムリットサル事件・・・・・Wikiより
1919年4月13日、インドのパンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)で非武装のインド人市民に対して、グルカ族およびイスラム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃した事件。市民はスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まっていた。アムリットサル虐殺事件とも呼ばれる。
女性や子供も参加し、非武装で暴力的行為も無かったこの集会の参加者に対してイギリス人のレジナルド・ダイヤー准将率いるグルカ兵からなるイギリス領インド帝国軍一個小隊が乗り込み、いきなり参加者に対する発砲を始めた[2]。さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。この後、戒厳令が発令され、暴動は一気に収束したが、この弾圧によってインドの反英運動は激化することになった。
ポイントは
「女性や子供も参加し、非武装で暴力的行為もなかった集会参加者」に対して、「避難する人々の背中」に向けて、機関銃で弾丸が尽きるまで銃撃を続けた。
大英帝国軍の植民地インド人に対する、この高校世界史でも教わる「虐殺事件」は、丁度、三一独立運動が起きた、1918年3月1日の、1年と1か月後ですね。
続いて
セポイの乱・・・・・・Wikiより
1857年から1858年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する民族的抵抗運動、反乱のことである。
(中略)
反乱の収束
ヴェレシチャーギンが1884年に描いた絵画。反乱軍兵士を砲に括り付け、木の弾丸を発射する英軍による見せしめ。兵士の軍装は反乱当時のものではなく描いた年代のものである。
イギリスは反乱の原因となったエンフィールド銃を大量に配備し、不正確な命中精度で短い射程でしか射撃できない旧式の滑腔銃を持った反乱軍(18世紀的な密集銃隊で運用された)を射程外の距離から正確に射撃する事で圧倒した。
また、捕虜となった反乱軍兵士への残虐な処刑(大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して身体を四散させる)を見せしめとして行い、恐怖で反乱軍とインド民衆の士気を挫こうとした。
★「世界史的な常識」で言う、「植民地政府軍」による「独立運動」に対する「弾圧」とは、良い悪いの問題は別として、こういうものです。
アメリカ独立戦争でのイギリス軍の弾圧も、アメリカ市民を教会に閉じ込めて「放火」して焼き殺したりしました。
韓国が「民族の栄光」として「国家の記念日」とする「三・一独立運動」とは、「独立運動」と言える代物ではないと思います。
首謀者の崔南善(チェナムソン)が「独立宣言」を読み上げただけで、後は、不規則なデモ行進と、破壊活動や放火をやっただけ。
「民主化以降」の韓国の名物となっている「ろうそくデモ」と実態は変わらない。
2008年韓国蝋燭デモ・・・・・Wikiより
大韓民国(韓国)で行われた米国産牛肉輸入再開反対に端を発した一連のデモである。日没後に行われ、参加者は蝋燭に火を点して集まったことから「蝋燭デモ」と呼ばれる。 約100日間デモが続き、当初の牛肉輸入問題から、教育問題、朝鮮半島大運河構想、公企業民営化反対など李明博政権に対する批判と退陣要求へと争点が拡大した。
この「蝋燭デモ」は最終目標が当時の大統領の李明博に対する「退陣要求」ですが、「三・一独立運動」とは、退陣要求の対象が、「李明博」から「当時の朝鮮総督」に代わっただけじゃないですか(怒)
話しを、中曽根と全斗煥に戻します。