書籍化されました。
《「反日」が宗教となった現在の韓国と「世界第一の親日国」の台湾の違い》
3.11東北大震災の時に、アメリカを抜く「巨額の義捐金」をくれて日本人を驚愕させた「世界一の親日国の台湾」ですが、尊敬する李登輝総統がyou tubeの動画でも語っていたのは、日本統治時代を振り返って「あっち(朝鮮半島)の方が、台湾より扱い(待遇)が良かった」と言っていました。
《大日本帝国時代、朝鮮半島より先に「黒字化」した台湾統治》
私が、今更くどくど述べるまでもなく、大日本帝国の「異民族が住む外地」の経営で、最も成功したのが戦前の台湾でした。
戦前、大正12年の関東大震災の時も「台湾住民」から少なからぬ義捐金を貰ったとどこかで読んだ記憶がありますが、今探しましたが、情報源を失念しました。
1945年8月15日、「大日本帝国の崩壊」まで、「朝鮮半島経営」は「日本の持ち出し」「赤字経営」でしたが、台湾は相当早く「黒字経営」になりました。
「換金性」の高い、農産物、サトウキビやバナナの導入、有名な八田與一(よいち)による烏山頭ダム建設など治水事業の成功も有りました。
朝鮮半島の日本統治36年に比べて、スタートが早く期間も50年と長かったこともありますが、台湾総督府に派遣された人材が、特に朝鮮総督府に勤務した日本人より優秀だったということもありません。
《「地政学的な見地」から優遇、重視された朝鮮半島》
日清戦争、日露戦争とも、「朝鮮半島に安定した親日政権」を作るための戦争でした。
清国から独立させて「大韓帝国」としても、「事大主義(常に強い方になびく)」のDNAが染み付いた、李王家は、「意志薄弱」な高宗のもとで、自立は不可能でした。
伊藤博文が朝鮮統監として補佐しても、「大韓帝国」が自立して、日本の安全保障にプラスに貢献してくれることを長い将来にわたって期待することが不可能だと当時の桂太郎首相や、伊藤博文もわかっていました。
ただ伊藤は、ハルビンで安重根に暗殺されるまで「日韓併合」には一貫して反対し続けました。
このままの「保護国」のままでよいと。
《「日韓併合」を加速させたアメリカの圧力と「桂・タフト密約」》
桂・タフト密約とは・・・・WIKIより
桂・タフト協定
日露戦争中の1905年(明治38年)7月29日に大日本帝国の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中に来日したアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定。
なお、タフトは後に第27代アメリカ合衆国大統領に就任した。
桂・タフト覚書(かつら・タフトおぼえがき、英語: Taft-Katsura Memorandum)とも呼ばれる。
概要
この協定当時、日本軍は日露戦争中であったが、すでに日本海海戦での勝利を経たあとで、ロシア帝国軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた。アメリカのルーズベルト大統領は自身のフィリピン政策を議会に支持してもらうために、タフト陸軍長官を団長として総勢83人の大型外交団を派遣することにした。
1905年7月8日、サンフランシスコを出発したタフト外交団はホノルル経由で7月24日、横浜港に到着した。日露戦争中の日本訪問の目的は、日露の和平交渉役となるアメリカが日本の対露要求を直接確認すること、大統領の娘アリスをメンバーに加えることで、前年の伏見宮貞愛親王の皇室外交に対する返礼、および大日本帝国がフィリピンへいかなる介入もしないと約束させることであった。1899年7月21日、フィリピンに武器を運んだ布引丸は嵐で沈没したが、大日本帝国にくすぶり続けるフィリピンに対するアジア人としての同情の火を消すことが、タフトの最も重要視した案件であった[3]。
この協定では、米国は当時の大韓帝国(以下、韓国)における日本の支配権を確認し、大日本帝国は米国のフィリピンの支配権を確認した。 列強が勢力を模索する時代の中で、日米首脳が相手国の権利を認め合った協定といわれ、その後の日米関係を円滑にするものであった。また1902年(明治35年)の日英同盟を踏まえたもので、日英米の三国による東アジアの安全保障について意見が交換された。
協定は、互恵的に署名された文書や秘密の条約ではなく、合意を記した会合覚書(メモ)であり、この合意覚書は、アメリカ外交史家だったタイラー・デネットがアメリカ議会図書館に保存されていたセオドア・ルーズベルト大統領の「プライベート史料」とラベルの貼られたボックスの中でこれを発見して、雑誌『Current History』「ルーズベルト大統領が結んだ日本との秘密協定」にタフトが時の国務長官エリフ・ルートに宛てて送付した合意の電文を掲載した1924年(大正13年)まで公表されなかった。
《日露戦争の「世界史的な意味」と戦後の東アジアの安全保障体制》
➀日本の同盟国「大英帝国」にとっての「日露戦争の意義」
★「対ロシア」グレーとゲームの終焉
七つの海を支配した大英帝国の「世界戦略の基本」は外交とバランスオブパワー(勢力均衡)でした。
ユーラシア大陸の西端で日本と同じ島国、外敵は、ドーバー海峡と大西洋が守ってくれます。
国土も人口も少ないので、「大陸軍」を作るのは無理ですが、「海賊」の伝統から海軍力の維持とオペレーションは得意です。
帝国の「生命線」は豊富な物産のあるインド植民地でした。
植民地インドは、当時の繊維産業の原料、綿花の供給地であると同時に、「産業革命」で大量生産を可能にした繊維製品の大市場でもありました。
その大英帝国の「生命源」でもある植民地インドを脅かし続けたのが、ロマノフ朝帝政ロシアでした。
ナポレオンのグランダルメ(大陸軍)を敗退させ、世界最強の陸軍国となった帝政ロシアは「不凍港」を求めて、南下、あるいは東進を続けました。
「ヨーロッパの病人」と呼ばれ、衰退したオスマントルコ帝国のスキを突き、黒海から、ダーダネルス海峡を経て、地中海に出ようとしたところを、フランスのナポレオン三世と同盟して、クリミア戦争で破り、黒海経由で地中海に出ようとする意図をくじきました。
南下を諦めたロシアは、中央アジアを征服しながら、アジアで海に出ようとします。
ロシア陸軍が、アフガニスタンに近づいた時に、大英帝国は態度をはっきりさせないアフガニスタン王国と2度戦って、勝ち、ロシアがアフガニスタンを手に入れて植民地インドに近づくのを阻止しました。
アフガニスタン経由で南下して不凍港を手に入れるのを諦めたロシアは、更に東進して、シベリアから北東アジアに辿り着きました。
そこには、滅亡寸前の中国の清王朝とその属国の李氏朝鮮があります。
朝鮮半島をロシア領にすれば、黄海から東シナ海に出る満州の大連港と朝鮮の良港が手に入ります。
しかし、それは地政学的に、近代国家になったばかりの大日本帝国にとっての直接的な脅威であるばかりではなく、香港と中国大陸沿岸部に「利権」を持つ大英帝国にとっても大きな脅威では有りました。
すなわち、日露戦争は大日本帝国にとっては「絶対に譲れない国防」であり、
大英帝国にとっては、欧州から、ユーラシア大陸をロシアとがっぷり四つを組み続けた「グレート・ゲーム」の「最終戦争」でもありました。
それで、欧州の列強とは一切、同盟を結ばず「栄光ある孤立」を保ってきた大英帝国が、新興の黄色人種の近代国家の日本と対等の同盟、「日英同盟」を結ばせたのです。
いわば、「腹黒紳士」のイギリスが「勝ち馬」として日本に賭けたのです。
《遅れてきた植民地帝国のアメリカ合衆国》
イギリスの「清教徒革命」の残党のピューリタンたちが、メイフラワー号に乗って、アメリカ東海岸に到達して以来、マニフェスト・デスティニー(明白なる運命・神の意思)として、ひたすら、西進し、太平洋に辿り着き、新たな市場と植民地を求めて、北東アジアを見た時は、アメリカが切望していた中国大陸、清朝は、既に、英仏列強に蚕食され、入り込む空間がありませんでした。
アメリカが最後に狙っていたのが、現在の中国の東北部の、戦前の満州国のエリアです。
しかし、満州の北半分は既に帝政ロシアの「勢力下」に入っていました。
しかも、ロシアは更に南下して、朝鮮半島を狙っていました。
ロシアが李氏朝鮮を属国化するか、直轄の領土にすれば、朝鮮半島の不凍港から、次は、太平洋に進出してきます。
帝政ロシアが「不凍港」を手にいれ「大海軍」を作れば、当時」アメリカの植民地だったフィリピンが脅威にさらされます。
アメリカは、ロシアを南シナ海に出したくないし、出来れば「満州の権益」を手に入れたい。
しかし、極東まで大陸軍を派遣して、ロシアの南下を阻止するのは無理です。
そこで、大統領のセオドア・ルーズベルトは、秘かに日本を支持して、大日本帝国の陸海軍をもってロシアを阻止させることで日米は「利害」が一致しました。
そのことは、いざ日露が開戦して、日本が圧倒的に有利な状況で「公正・中立な第三国」として、アメリカが日露の講和を仲介するという「密約」でした。
《全世界の予想を覆して、「完全勝利」しすぎ、アメリカから脅威とみなされた日本》
日本は大陸では、奉天会戦でロシア陸軍を取り逃がして、殲滅できませんでしたが、敗退させました。
苦労しましたが「永久要塞」の旅順203高地も陥落させました。
そして、日本海海戦では、統合元帥率いる「連合艦隊」が、逃走を許した一隻を除いてバルチック艦隊を全滅させるという世界海戦史上の快挙を成し遂げました。
後に辛亥革命を起こして、中華民国を建国する革命家の孫文は当時、ロンドンに滞在していましたが、
日本の「日本海海戦大勝利」の報を乗せた新聞を読む、ロンドン市民の驚きと複雑な表情を記録に残しています。
★目の上の瘤だったロシアが負けたのは言いにしても、日本と言う黄色人種の国はこんなに強かったのかと。
《武田信玄曰く「勝ちは六分をもって良しとする」》
戦国随一の名将の武田信玄は「甲陽軍鑑」でこう述べています。
★「勝ちすぎはベストではない」ということですね。
《大日本帝国の「連合艦隊」に「脅威」を感じたアメリカ》
アメリカは「落日のスペイン帝国」に米西戦争で勝利して、スペインの植民地だったフィリピンを割譲させました。
しかし、独立を求めるフィリピン軍と米比戦争を戦い、苦戦していました。
大統領のセオドア・ルーズベルト自身が、大統領になる前に、米比戦線に珠軍していましたから、フィリピン人の抵抗の強さは実感していました。
《「ハワイ王国」を侵略した時の東郷平八郎元帥の行動がトラウマとなっていたアメリカ》
「アメリカのハワイ併合」
ハワイ王国・・・・WIKIより
1795年から1893年までハワイ諸島に存在した王国である。1893年にサンフォード・ドールなどアメリカ移民による革命でアメリカ合衆国の傀儡国家として名目上共和制のハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州 (Territory of Hawaii) として併合されて消滅した。
日本との関係
ハワイ王国と日本との間には1867年に日布親善協定を締結して外交関係が樹立された後、1868年には日本から民間の第1号移民団153名がハワイに渡った。これは明治元年に相当するため、ハワイ移民のパイオニアである彼らは「元年者」と呼ばれている。ハワイ王国はこの後も日本人移民を積極的に受け入れたため、21世紀の現在でもハワイには日系人が多い。また、当時の東京にはハワイ王国公使が駐在しており、群馬県の伊香保温泉にはその別邸も現存している。
1881年、世界一周旅行の最初の訪問国として来日した国王カラカウアは明治天皇に謁見した際、ハワイ王国の安泰のため日本とハワイの連邦化を提案した[2]。その時のカラカウアからの提案は次の通りである。
- 日本・ハワイの連邦化[2]
- 日本・ハワイ間のホットライン敷設
- 日本主導によるアジア共同体の創設
- カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁談[2]
- 同じ有色人種である日本人のハワイへの移民(当時のハワイは西欧からもたらされた疫病により、原住民の人口が激減していた)
日本政府はアメリカとの対立を避けるため、これらの提案を「良友 睦仁」の御筆の入った親書をもって丁重に断った。しかし、移民の促進に関しては問題がないと考え、1885年には日布移民条約が締結され、官製移民団が組織されるようになった。官製の移民は1885年から1894年まで続き、総計29,339人がハワイに渡った。
1893年のクーデターの際、明治政府は「在留邦人保護」を名目として、巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)、帆走コルベット「金剛」をホノルル港へ派遣し、米艦ボストンの真横に投錨して新政権を牽制した。これは王国政府側からの要請であったという説もあり、それを裏付けるかのように東郷は新政権を完全に無視し、リリウオカラニ女王の側近とのみ接触している。
★率直に言って「アメリカの侵略」です。
他国の領土に「移民」を送り込んで「共和政」を唱えて、国を亡ぼすか領土を割譲させる。
★米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)と同じパターンです。
今、トランプ大統領は、国境を接するメキシコから、テキサス州やカリフォルニア州への「不法移民」に怒っていますが、元々は、メキシコの領土だったんです。
ですから、「貧困」から逃れようと、夜間に国境を超える「不法移民」、テキサスに侵入して、アメリカの住民から「凌奪行為」を繰り返す、メキシコの強盗団は、言ってみれば「アメリカにとっての因果応報」なのです。
これこそ「侵略」ですよ(怒)
ポイントは
「1893年のクーデターの際、明治政府は「在留邦人保護」を名目として、巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎大佐)、帆走コルベット「金剛」をホノルル港へ派遣し、米艦ボストンの真横に投錨して新政権を牽制した。これは王国政府側からの要請であったという説もあり、それを裏付けるかのように東郷は新政権を完全に無視し、リリウオカラニ女王の側近とのみ接触している。 」・・・・・です。
★アメリカの「ハワイ王国強奪行為」に激怒した、東郷元帥が、ハワイのアメリカ部隊を威嚇したんですね。
一説には、「威嚇艦砲射撃」をしたという説もあります。
アメリカは東郷平八郎元帥のことを覚えていたのです。
その東郷元帥が、12年後に、バルチック艦隊と戦ってパーフェクト勝利を挙げました。
《アメリカとしては、大韓帝国を早く日本に併合させて、日本の目がフィリピンに向くのを阻止したかった》
大韓帝国を「保護国」ではなく「消滅」させ、日本に「直接統治」させれば、フィリピンや、西太平洋に「関心」を持つことはなくなるだろう。
セオドア・ルーズベルト大統領は、そう考えて、日本海海戦が完勝に終わるや否や
- 大日本帝国はアメリカのフィリピンに対する「権益」を認める。
- アメリカも大日本帝国の「朝鮮半島」の統治を認める。
この「確約」を急がせたかったのです。
《なぜ「密約」と言う形式をとったのか》
アメリカはこの後、日露講和の仲介となって「ポーツマス講和会議」を開催します。
この時点で「日本側に立っている」ことがばれたら、ロシアのニコライ2世はセオドア・ルーズベルト大統領は「中立ではない」といって信用しなくなるでしょう。
《この時、アメリカにとって「障害」となったのが「日韓併合」に反対する伊藤博文の存在》
テロリスト、安重根の「銃創」は致命傷とはなっていない。
確かに、満州のハルビン駅のホームで、安重根は伊藤博文を銃撃しました。
しかし、事件後の解剖で、安重根が持っていたピストルの機種と、銃弾の銃創は、伊藤博文の息を止める「致命箇所」から外れていることが確認されています。
JFKがダラスで暗殺されたときの様な「劇場型殺人」と類似点を感じるのは私だけでしょうか。
生存した随行員の証言では、ホームの安の立っていた位置と別の方角からも、銃声が聞こえたというものもありますが、何故か、致命弾を撃った「真犯人」を捜索する気配は有りません。
《伊藤博文の「死」を待っていたかのように締結された「日韓併合条約」》
韓国ではこの時の「日韓併合条約」は「無効」だと主張する「勢力」がいます。
★「現状認識ができない」、「当事者能力がない」高宗が一人、狼狽して、ハーグに「密使」を派遣して、日本の横暴を訴えましたが、「列強」=「国際社会」は相手にしませんでした。
《「桂・タフト密約」→「ポーツマス講和条約」→「日韓併合条約」は「日露戦争後の「国際安全保障体制」確立の流れ》
★日露戦争は、戦車や航空機こそ登場しませんでしたが、世界で初めての「国家総力戦」でした。
戦況は、日本が圧倒的に「優勢のうち」に
- 日本は「戦費」の枯渇
- ロシアは「血の日曜日」と言う「革命」の発生
で両国は「継戦能力」を失ったのです。
★「第0次世界大戦」と言ってもよいでしょう。
実際、乃木希典大将が苦戦した「旅順要塞」の攻防でロシア軍はチェコスロバキア製の機関銃を使用しています。
そして「戦後体制」は
- ロシアの極東からの撤退
- 日本の「朝鮮統治」は大英帝国とアメリカの「安全保障」に貢献する。
大英帝国の「顔色」を見て、動けなかったフランスと、ドイツ帝国には「発言権」がありません。
滅亡寸前の中国の清朝は、「満州」と言う自国の領地を「戦場」として、貸しただけでした。
《「日露戦争後の戦後体制」は、戦勝国の大日本帝国と同盟国の大英帝国、「講和仲介者」のアメリカが「日韓併合」と言う形で決着をつけたのです》
詳細は確認していませんが「日韓併合条約」には高宗は署名を「拒否」したとも聞いています。
代わりに、当時の大韓帝国の総理の李完用が、署名して玉璽を押したと聞いています。
李完用とは・・・・WIKIより
李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。勲等は大勲位。爵位は侯爵。
大韓帝国の内閣総理大臣、大日本帝国の朝鮮総督府中枢院副議長などを歴任した。
韓国統監伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任[1]。同年6月の高宗が起こしたハーグ密使事件に際しては日本側に立って退位を進めた
韓国統監府承認のもと、純宗から全権委員に任命され、22日に韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)を調印した。
★高宗が「退位」し、即位した純宗から「全権委員」に任命されていますね。
これで、「国際法上は問題なし」です・
この際、李完用が言ったといわれる言葉が印象深いです。
「朝鮮人が治めると朝鮮は不幸になる」・・・・意味深だと思います。
「遠大な遠回り」をしましたが、文在寅の鑑定で締めくくりましょう。
次号へつづきます。