閑話休題|コロナウイルスと中国発疫病史③欧州とモンゴル
《中世のヨーロッパを襲ったペストも「中国発症」だった》
1300年には7300万人に達したヨーロッパの人口は、1348年の「ペストの大流行」で1351年までの3年間で人口の三分の一を病死により減少させました。
《先ず当時の南宋王朝で流行し、交戦中だったモンゴル軍に感染・流行させた》
南宋とは・・・・Wiki
1127年 – 1279年)は、中国の王朝の一つ。
趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。
満州(中国東北部)を根拠地とする女真族の金に皇帝と宮廷の廷臣らを拉致されて、「北宋」は一旦滅亡しますが、宋朝の遺臣は、揚子江以南に皇帝の一族を擁立して「南宋」を建国しました。
女真族ら、北方の狩猟騎馬軍団は、日本の瀬戸内海の海峡ほどもある揚子江を渡河してまで、侵攻する能力が無かったので、「揚子江という天然の要害」に護られて南宋は息を吹き返します。
中国の歴史上、所謂「華南地域」が本格的に開拓され、経済発展したのは南宋時代からでした。
女真族の金が、モンゴルによって滅ぼされると、モンゴルのモンケ・カーンは、南宋を滅ぼすべく軍を南下させました。
モンケ・・・・Wiki
チンギスハンの孫で、後に元朝を興すクビライの兄です。
モンゴル帝国4代目の大カーンでした。
モンケはモンゴル騎馬軍団を派遣して南宋に侵攻しましたが、南宋の名将の孟珙(もうきょう)の巧みな采配によって敗れ、苦戦を強いられていました。
派遣軍の不甲斐なさにしびれを切らせたモンケは自ら兵を率いて「親征」を決断しました。
四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行、突出して侵攻したが、その途上、翌年7月末に重慶を攻略した後、合州の釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって1259年8月11日に死去した。
当時、世界最強のモンゴル軍の大カーンの命を奪ったのが、南宋で大流行していたペストでした。
後方の本営で指揮を執っていた大将にまで感染して、病死させたのですから、この時のモンゴル軍団の多くの将兵がペストに感染していたのは間違いないでしょう。
生き残った、将兵は、モンケ・カーンの棺を要して、獏北(ゴビ砂漠の北方のモンゴルの根拠地)のカラコルムに戻りますが、生還した将兵もペストを発病して、内モンゴルにペストを流行させます。
そして、ペスト菌は、モンゴルの宮廷から「商権」を委任されていたアラブ商人によって、シルクロードを経由して、ヨーロッパにまで到達したのでした。
モンゴルからヨーロッパへの交易品の積み荷の中に潜んでいたネズミにペスト菌を持ったノミがついていたのでしょう。
中国の揚子江以南に流行していたペストは、モンゴル軍によって、獏北に持ち帰られ、シルクロードに沿って、中央アジアのステップ地帯から、先ずクリミア半島に到達し、流行が始まり、瞬く間に地中海沿岸に流行したのです。
そして最終的に、当時のヨーロッパの人口三分の一を死に至らしめました。
ドイツでは、悪人でも犯罪者でもなく、善良な市民で日頃からキリスト教の信心深い人々が、目の前でバタバタと倒れて無くなるのを見て、カトリックやローマ教皇に「不信感」を抱く人が増えて、それがのちのルターによるプロテスタント「宗教改革」に繋がりました。
※続きます。