書籍化されました
《「白馬に跨る抗日英雄金日成将軍伝説」はいつから広まったのか?》
「金日成は4人いた」(成甲書房)を著したのは韓国人ジャーナリストの李命英(イ・ミョンエン)氏です。
1928年生まれ、2000年病没(72歳)。
ソウル大学校大学院政治学科終了。中央日報の論説委員を長く勤め、傍ら成均館大学教授として、北朝鮮の実証研究を亡くなるまで続けました。
徹底した「実証調査」の結果、戦前、日本統治下の朝鮮人から「金日成将軍」だと思われ、朝鮮半島や満州国の新聞で報道された人物で該当するものは4人だと結論付けています。
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第1号「白馬に乗った金将軍」
大正時代の「シベリア出兵」の時に「白馬に跨った朝鮮人の金という将軍」が、赤軍(ロシア革命軍)に参加し、600名ほどの高麗人(日本統治を嫌ってソ連沿海州に逃げた朝鮮人)部隊を率いて、白軍(ロシアの反革命軍)や、中国の馬賊と戦っていたという「見聞記」が日本陸軍の「探査記録」に残っています
シベリア出兵
1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦の連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・
イタリア・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、
ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
但しシベリアに出兵した日本軍との交戦記録は有りません。
なんで、これが「抗日」なんですかね?
研究家の李命英氏の、戦後の聞き取り調査の結果、「シベリア出兵時」に出現した「金将軍」はこの人だろうということで確定しました。
金光瑞(キム・ガンソ)
1888年6月5日 – 1942年1月2日)は、朝鮮の独立運動家。
本名は金顕忠(キム・ヒョンチュン)だが、独立運動では金光瑞(キム・ガンソ)、あるいは金擎天と名乗った。
陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校に留学して、大日本帝国陸軍騎兵中尉となったが、脱走して独立運動に身を投じ、大正年間は主にシベリアで活動した。ソ連国籍となり、スターリンの大粛清で獄死したとされている。
金日成将軍伝説のモデルの一人とされる。
名前を4個も持っているのでややこしいですが、日本の研究家は「金光瑞(キム・ガンソ)」で統一しています。
李氏朝鮮の両班の武官の家系に生まれました。
両班(ヤンバン)とは、
文班・・・・文官→事務官僚
武班・・・武官→軍人
の意味です。
李氏朝鮮は「偏執的な儒教王朝」でしたから、文官を上位とみなし、軍人をそれより劣るものとして扱いました。
これでは、外敵異民族の侵入に勝てるはずが有りませんね。
日清戦争で、日本の勝利に驚いた大韓帝国(日清戦争の日本の勝利で清国から独立した)の軍人の子弟で、日本の陸軍幼年学校や、陸軍士官学校に留学する朝鮮人は多かったようです。
1910年の「日韓併合」にショックを受け「抗日独立」を叫ぶ、朝鮮人留学生が多かったそうですが、彼は「先進国日本から軍事技術を吸収してから独立運動に参加しよう」と考えたようです。
シベリア出兵時の活躍が、日本統治下の民族系新聞の東亜日報や朝鮮日報の目に留まり、インタビューにも応じているようですが、彼自身が「金日成」を名乗ったことは有りません。
日本など連合軍がシベリアから撤兵するとやることが無くなり、上海に行って「大韓民国臨時政府」に合流しますが、意見が合わずに、脱退して再びソ連領に戻り、共産主義を標榜する「高麗共産党」に参加しました。
ソ連邦内に「亡命政府」として「朝鮮共和国」を結成しましたが、ソ連共産党からは承認されませんでした。
この点、連合国から承認されなかった「大韓民国臨時政府」とそっくりですね。
大東亜戦争末期同様、連合国もソ連も「朝鮮人には「自立」して国家を運営する能力がない」と思われていた証左でしょう。
結局、金光瑞(キム・ガンソ)は「スターリンによる「極東高麗人の強制移住」」で、中央アジアのカザフスタンに送られ、スパイの嫌疑をかけられて「粛清」されました。
しかし、写真に有るように日本の陸士時代の端正な容貌と騎兵将校というイメージが、いつか、民族の独立を望む「朝鮮人のメシア思想」の原型となったことは間違いありません。
第2号 白頭山に籠った「抗日ゲリラ」の金一成(キムイルソン)
「日」が「一」になっていますが、朝鮮語の発音は同じ「イル」です。
この、金一成、素性はよくわかっていませんが、年齢は第1号の金光瑞(キム・ガンソ)とほぼ同年代とみられています。
ということは、終戦時の1945年は、57歳前後となります。
始めて、発音が「キムイルソン」の「抗日ゲリラ」の頭目が出現しました。
しかし、金一成(キムイルソン)は小規模なゲリラ戦を繰り返したのちに、1920年代の後半には、病死したのか、消息不明となりました。
第3号 金成柱(キムソンジュ)
彼を有名にしたのは、現在「北朝鮮の建国神話」となっている普天堡の戦い(ふてんほのたたかい)です。
普天堡の戦い
1937年6月4日、満州に展開していた東北抗日聯軍として活動し日満国境を越えてきた金日成こと金成柱率いる一隊(のちの満州派)、
及び同じく東北抗日聯軍に籍を置き朝鮮甲山郡を本拠地に朝鮮内で活動していた朴金喆の率いる祖国光復会(朝鮮語版)の一隊(のちの甲山派)が普天堡(ポチョンボ)で行った赤色テロ事件である。
Wikiの編集委員は「普天堡の戦い」ではなく「普天堡事件」とすべきではないかと提言していますが、私も同感です。
「抗日ゲリラ」が白昼堂々、日本陸軍と交戦して「華々しい大勝利」を収めた「戦争」とは違います。
深夜10時に、人口約1380名の寒村(内訳、日本人、中国人、朝鮮人で、朝鮮人が1323名で95%が朝鮮人)に夜襲をかけて、警官隊と交戦しました。
被害は、日本側死者、警官7名、負傷者14名
抗日ゲリラ側 死者20名、負傷者30名
被害に遭った地元民はほとんどが朝鮮人で、現金6千万円相当(現在の物価換算で)が奪われたそうです。
要するに、被害に有ったのは「同胞の朝鮮人」であり、「物盗り」だったわけです。
しかも、東北抗日聯軍(とうほくこうにちれんぐん)とは、中国共産党の下部組織です。
金成柱は「朝鮮独立」のために戦ったのではなく、「中国の共産革命」のために戦ったのです。
ゲリラ撤退後、恐怖にかられた、地元朝鮮人世帯は次々と他の村に引っ越して、村は過疎化してしまったそうです。
激怒した朝鮮総督府は、金成柱に2万円(現在だと3億円)の「賞金首」をかけました。
朝鮮総督府の官憲から「大物扱い」され、これで「キムイルソン(襲撃した頭目はそう思われていた)」が、ビッグネームとなったのです。
しかし、金成柱はわずか5か月後の1937年11月18日に、満州国軍盗伐隊と銃撃戦で射殺されてしまいました。
死体検分の結果、年齢も36歳だと判明し、襲撃された普天堡村の目撃証言からも、40歳前後に見えたという点で、「普天堡襲撃犯」の頭目金成柱だと確定され、当時の京城日報(朝鮮総督府の機関紙)の記事になりました。
この時に射殺された「金成柱」は実は死んでいなくて、脱出して白頭山の密林に籠ったのだと主張したのが、「成りすまし初代金日成」こと金聖柱(キムソンジュ)でした。
「成」が「聖」に代わりましたが、朝鮮語の発音は「ソン」で変わりません。
しかし、金成柱は死にましたが、「普天堡の戦い」で連携して戦った朴金喆(パク・クムチョル)は、その直前に満州国警察に逮捕され、
終戦まで刑務所に収監されて生き延びましたから、戦後の金日成は「金成柱」とは全く別人だとすぐ見抜いたのです。
しかも、金成柱は1937年に36歳で死亡しましたから、終戦時は44歳で「成りすましの金日成」とは年代が合わないのです。
第4号 金一星(キムイルソン)
朝鮮と満州国の日本軍警は、「凶悪金成柱」を射殺したと安心していましたから、金一星(キムイルソン)、これは「馬賊」でしたが、1939年に、満州国である村に襲撃をかけてきたときは、仰天しました。
しかし、満州国軍の盗伐隊と銃撃戦の末、形勢不利となり、重傷を負ったままソ連領内に逃げ切りました。
そして、この時の負傷がもとでソ連領内で死亡したとみられています。
「日」→「一」は読みは「イル」で同じ。
「星」→「成」は読みは「ソン」で同じです。
但し、この金一星(キムイルソン)は目撃者によると「眼鏡をかけた小男」なので戦後の「成りすまし金日成」とは身体的特徴が違います。
第4号まで、倒してほっとした日満軍警ですが「キムイルソン」が神出鬼没だという不気味な印象を与えました。
《4人の「良いとこどり」をして「合成」された「金日成将軍のイメージ」》
・白馬に跨っている。
・朝鮮民族にとっての「霊峰」の白頭山の密林に「終戦」まで立て籠って勇敢に「抗日独立戦争」を戦ってきた。
・「普天堡の戦い」で日本軍に「大勝利」した(爆)
・「神出鬼没」の名将である。
こんなところでしょうか。
そして、結論としては、戦後突然現れた金日成は、上記4人とはいずれも別人です。