書籍化されました
「成りすまし金日成」こと金聖柱(キムソンジュ)の半生
金聖柱(キムソンジュ)は1912年4月15日、平壌西方の万景台にて、漢方医の金 亨稷(キム・ヒョンジク)と母、康 盤石(カン・パンソク)の長男として生まれました。
弟に、後に、金正日と「後継者争い」を演じる金英柱(キム・ヨンジュ)がいます。
母の康 盤石(カン・パンソク)は、その父同様に熱心なキリスト教長老派の信者でした。
実父の金 亨稷(キム・ヒョンジク)は「無資格の漢方医」となっていますが、歴史作家の井沢元彦氏と北朝鮮ウォッチャーの萩原遼氏の共著の
「朝鮮学校『歴史教科書』を読む」
で、萩原氏が、「わざわざ「中朝国境」で漢方医を経営するのはおかしい。麻薬の売人だったという説が根強い」と述べています。
更に、萩原氏が言うには「北朝鮮は麻薬の産地で、脱北者がよく言うのは「日本の薬は効かない。朝鮮の薬はよく効く」という苦情ですが、理由は、麻薬を使用しているからだそうです。
スポンサードリンク
私が未だ中学生だった頃、父が保守系の雑誌を読んであまりにも飽きれて、私に話したことは、「北欧諸国の北朝鮮の大使館の大使が次々に「国外追放」されているらしい。理由は、大使自ら、大使館を拠点に麻薬の売人をやってたからだそうだ(怒)」と怒っていました。
私は、ただ「スゲーな」と思っただけでしたが、今から考えると「将軍様からの命令」だったのか?
給料をくれないから、麻薬の売人をやって生活費を稼いでいたのか?
興味が有ります。
《満州で「匪賊」として「人でなし」の生活を送っていた青年時代》
1926年に、父の金 亨稷(キム・ヒョンジク)が死亡します。
北朝鮮の公式記録では「過労による病死」となっていますが、
金 亨稷(キム・ヒョンジク)
「鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、
それを妬んだ朝鮮人の共産主義者に、1926年6月5日殺害された。
その後妻は中国人の警察隊隊長の妾になった」という説も有る。
私は、こちらの説が真実に近いと思います。
何故か、実父は「単身」で中朝国境の北側で開業していたということは、妻の康 盤石(カン・パンソク)は、朝鮮北部の平壌にいたことになっていますから、おそらく「妾」がいただろうし、麻薬売買に関係するトラブルで命を落としたと考えるのが自然でしょう。
父を亡くした金聖柱は、「馬骨(マコル)」という「匪賊」の集団に身を投じます。
馬骨(マコル)は「共産主義」を標榜していましたが、実態は「強盗団」でした。
間島(カンド)と言いますが、
間島(かんとう)
豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。豆満江を挟んで、北朝鮮と向かい合う。
当初、朝鮮では豆満江の中洲島を間島と呼んでいたが、豆満江を越えて南満洲に移住する朝鮮人が増えるにつれて間島の範囲が拡大し、豆満江以北の朝鮮人居住地全体を間島と呼ぶようになったものである
現在の中国東北三省の一つで「吉林省延吉の朝鮮族自治区」です。
ですから、金聖柱の所属した馬骨(マコル)の連中が襲った金持ちというのは「同胞」の朝鮮人の「良民」や「富裕層」でした。
同胞民族の朝鮮人家庭を襲撃し、金品の強奪、暴行、殺人、放火、女性に対するレイプの日々でした。
「匪賊」の「匪」という漢字の意味は「人でなし」だそうです。
要するに、馬に乗ってピストルをもって移動する「反社会集団」です。
1929年5月、日本領事館が、当時同じ「大日本帝国臣民」だった朝鮮人から取り締まりの要請を受けて、一斉検挙に踏み切ると、馬骨(マコル)の連中は一網打尽で逮捕され、集団はあっさりと消滅しました。
間一髪、逮捕を逃れた金聖柱が頼ったのが、「独立運動家」から中国共産党の「下部組織」の長になった、同じ朝鮮人の李鐘洛(りじょんらく)部隊でした。
当時の大陸では「軍」という名がついても実態は、全て、ゴロツキ、ならず者集団でした。
「共産主義革命家」を名乗りながらも、やっている仕事は「革命資金」と称して、農民から税金を取り立てることでした。
中国共産党と対立している国民党から守ってやるから「税金を寄こせ」とは「暴力団のみかじめ料」と同じです。
元々、残忍で粗暴な性格だった金聖柱にはこの仕事が性に合っていたようで、ノルマ以上に取り立てて李隊長の信頼を得ました。
李鐘洛(りじょんらく)部隊は勢力を増やして「東北抗日連軍(とうほくこうにちれんぐん)」と呼ばれるようになりました。
一言で言えば「東北人民革命軍という共産主義者に主導された抗日武装部隊」です。
当時、満州の中国共産党組織は「朝鮮人を土台」にして組織されていました。
行動のパターンは、日中は森林に潜んで休息をとり、夜になって、村落を襲い、「人質」を拉致して「身代金」を要求し、少年少女を拉致して、幼い頃から仕込んで、将来「遊撃隊」に仕立てる。
少女は、隊長や隊員の「花嫁候補」です。
《「成りすまし金日成」こと金聖柱がやっていたことに「日本人拉致問題の原点」が有る(怒)》
「東北抗日連軍」は、組織編成から戦闘方法まで何から何まで「馬賊方式」でした。
国母伝説
「成りすまし金日成」の妻、金正淑(キムジョンスク)は「拉致被害者」だった(怒)
北朝鮮の公式記録では、金日成の妻で、金正日の実母の金正淑(キムジョンスク)は、14歳で「抗日民族独立の意識」に芽生えて、自ら銃を取って、「抗日パルチザン」に身を投じたことになっていますが、事実は違います。
金正淑(キムジョンスク)は咸鏡北道の会寧に生まれ育ち、14歳の時に、「東北抗日連軍」に「拉致」されて、隊長から無理やり「成りすまし金日成」こと金聖柱の妻にさせられたのでした。
13歳で北朝鮮に拉致された横田めぐみさんと、かぶります。
https://mainichi.jp/articles/20180313/dde/012/030/005000c
「女史」「尊敬するオモニム」などと呼ばれた金正淑氏(右)。幼い金正日氏は金日成主席に抱かれている=「金正淑伝」(平壌・外国文出版社)から
それで、終戦後、「成りすまし金日成」の正妻、即ち「国母」として、北朝鮮国内を巡回し、会寧を訪れた時に、村人は14歳で匪賊に「拉致」された少女が「国母」になって帰ってきたのを見てびっくり仰天したそうです。
拉致被害者で未だ帰国できていない横田めぐみさんも、13歳の時に新潟で拉致されましたから、北朝鮮の金王朝は、初代の「成りすまし金日成」こと金聖柱のDNA通りに、未だに、1920年代の「無法地帯の満州」の「馬賊国家」だということがわかります(怒)