書籍化されました
ソ連時代から 「北朝鮮の解放者」として凱旋帰国するまで
金日成のデビュー(1945年10月14日)
1940年の冬、満州国警察隊の「盗伐」を受けて、「東北抗日連軍」は、ほぼ壊滅し、辛うじて逃げおおせた約300人は、ソ連領ハバロフスクに逃げ込みました。
この時、同じ舞台に「第4号 金一星(キムイルソン)がいたことが、金聖柱の「運命」を大きく変えることとなりました。
ソ連領内に逃亡した「朝鮮人共産軍部隊」は、当時、中国の延安に根拠地の有った、中国共産党が「我々の下部組織の人間である」と保証したので、スパイとして、逮捕されることは有りませんでした。
延安(えんあん)
中華人民共和国陝西省に位置する地級市。1937年から1947年まで中国共産党中央委員会が置かれ、
この期間中に毛沢東の党内主導権が確立したことから、共産革命の聖地とされる。
「地級市」とは、「区域単位ほど面積の大きい」都市のことです
《朴甲東氏による「北朝鮮絶対機密事項」のアリバイ崩し》
朴甲東
創業者
1919年3月11日、朝鮮慶尚南道、ソウルの南約300kmにある丹渓里(ダンゲリ)で、名門両班の地主の次男として生まれる。
1941年、早稲田大学卒業後朝鮮へ帰国し、朝鮮独立運動に身を投じ抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織する。
戦後、朝鮮共産党機関紙「解放日報」記者を経て、南朝鮮労働党に合流。1948年、朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、文化宣伝省ヨーロッパ部長になるが、 1950年、金日成の粛清により逮捕、監禁される。
1956年、釈放されると翌年に北朝鮮を脱出し、日本へと逃れて金日成政権批判を続けた。
同じ南朝鮮労働党出身の朴正煕とも親交があった。
朴正煕に、アメリカに秘密に、中ソとの国交回復のために北京・モスクワに赴く全権密使になることを依頼されるも、
その直後に朴正煕はKCIA部長の金載圭に暗殺される。 1992年1月、朝鮮民主統一救国戦線常任議長。
パルチザン
イタリア語由来のフランス語で、占領軍への抵抗運動や内戦・革命戦争といった非正規の軍事活動を行なう遊撃隊
およびその構成員[2]を指す単語である。ゲリラの類義語である。
「独立運動の年」1919年
1919年生まれとは、日本では大正8年生まれです。
世界で何が起こった年かというと
1月18日に第一次世界大戦のパリ・ヴェルサイユ講和会議が始まりました。
朝鮮半島では「三・一独立運動」が起きました。
4月には、英領インド内で独立運動が起きて、進駐イギリス軍による「アムリ・サットルの虐殺事件が起きました。
中国では五・四抗日運動が起きました。
「独立運動の年」だったようですね。
日本留学後は、抗日パルチザンに身を投じ、終戦後は北朝鮮の高官にまで上り詰めました。
金日成の「粛清」に遭いましたが、間一髪のところで、「脱北」し、日本に亡命して、出版社を経営しています。
朴甲東氏は、パルチザン時代の豊富な人脈から、金聖柱の実弟の金英柱らとも親しく、李命英氏の「金日成は4人いた」の出版にも大きく貢献しています。
ちなみに、出版社は「成甲(せいこう)書房」と言い、「鬼塚史観」で有名な鬼塚英明氏の多くの著作はこの出版社から出版されています。