書籍化されました
《日清・日露戦争と連勝し、「列強」の仲間入りを果たした後、「日本円」は「基軸通貨」となった》
※続きです。
朝鮮半島の農村は「李氏朝鮮500年の放置政治」で、「農作物の生産性」が極めて低かったです。
「朝鮮農村の生産性の問題」は、36年間の日本統治で、末期には飛躍的に向上しますが、農村の小作人の一家が、収穫後、「小作料」としてキムチの原料の白菜を一定量、地主からもらっても、白菜で、家族の欲しがる日本製の衣料品などとの物々交換は「不利」でした。
それで、将来の見えない、農村の次男、三男以降は、貨幣経済が発達し、「基軸通貨の円」で「賃金」がもらえるので、日本本土に争って、渡航しようとしたのでした。
《「創始改名」以前にも、勝手に「日本風の姓名」を戸籍として届出していた朝鮮人》
創始改名
朝鮮の戸籍
1909年、大韓帝国は「民籍法」を制定し、近代戸籍の整備を開始した。
朝鮮初の近代戸籍である「隆熙戸籍」の整備が終了したのは日韓併合直前の1910年4月である。
併合後も民籍法は維持され、日本の戸籍法とともに朝鮮人に適用された。
この時一部の朝鮮人が日本内地風の姓名を届け出たため、当時の朝鮮総督府は1911年11月1日、総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」によって、戸籍や出生で「内地人ニ紛ハシキ姓名」の届出に厳しい制限をつけた。
その後、2種類の戸籍法規を統一する必要があったため、1923年(大正12年)「朝鮮戸籍令」(朝鮮総督府令第154号)が公布された。
いわゆる「創始改名」は1937年施行ですが、その27年前から「一部の朝鮮人が日本内地風の姓名を届け出た」と有ります。
朝鮮総督府は「内地人に紛らわしい姓名」に「厳しい制限」を付けたとありますが、朝鮮総督府があったのは京城(ソウル)だけで、半島全域の「自治体役場」まで目を光らせていたわけでは有りません。
しかも「厳しい制限」であって「禁止」では有りませんでした。
従って、1937年以前にも、「内地人風の姓名」で釜山から本土に渡航を試みる朝鮮人が多く、紛らわしいもの(朝鮮人は「濁音」が苦手「バ」を「パ」と発音する)は、乗船を拒否する措置を取りました。
《「俺たちも内地で働かせろ(怒)朝鮮人十八番の「団体交渉」が始まる》
・釜山で朝鮮人の「港湾組合」が5万人規模の「抗議集会」開催。
・「朝鮮労農総同盟」と「朝鮮生年総同盟」が内務省と法務省に抗議。
朝鮮総督府と現地警察が押し切られた結果、「内地在住の朝鮮人」の人口は
・1925年・・・・13万人
・1933年・・・・46万人
8年間で4倍近く急増しました。
《後の朝鮮総連の「独裁者」韓徳銖(ハンドクス)の内地渡航》
韓徳銖(ハンドクス)
1907年2月18日 – 2001年2月21日)は、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の初代議長。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)最高人民会議代議員を務めた。
経歴
1907年、朝鮮・慶尚北道生まれ。1927年に声楽家を目指して日本に渡り、1928年に日本大学に入学。
退学後は丹那トンネルの労働運動に参加し逮捕され、懲役2年執行猶予3年の判決を受ける。
人物
• 朝鮮総連議長として在日朝鮮人の愛国運動に貢献した功績から北朝鮮からは厚遇されていた。
金日成の葬儀の際は、葬儀委員会の序列4位に挙げられた。また、日本の政治家とも太い人脈があった。
声楽家を目指して、日大に留学し、中退した理由はわかりませんが、「丹那トンネル」の労働争議に参加したということは、退学後「肉体労働者」をやっていたということでしょう。
元公安調査庁第二部長の菅沼光弘氏は著作で
「北朝鮮発!世界の核戦争の危機」
菅沼光弘(著)
ビジネス社
「日本大学留学」という経歴には疑問も有る。
横須賀の小泉家とは「深い縁」があった。
「小泉訪朝」の陰の立役者だと言われている。
内地に渡航後、横須賀軍港の港湾労働者として、小泉又次郎の「小泉組」に「草鞋を脱いでいた」と見ている」
と述べています。
※続きます。