書籍化されました
ソ連時代の金聖柱と金正日の実父の金策の登場
「北の革命功労者の金策は「日中ソの三重スパイ」だったのか?」
※④からの続きです。
「成りすまし金日成」こと金聖柱に生涯にわたって強い影響を与え続けた、人物に金策(キンサク・キムチェク)という軍人がいます。
公式記録によると
金策
1903年8月14日 – 1951年1月30日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍人、政治家。北朝鮮労働党中央委員会常務委員。
経歴
咸鏡北道城津郡鶴上面水使洞で貧農の子として生まれた。家族とともに間島に移住した。
成長後、抗日パルチザン活動に身を投じ、中国共産党に入党。1936年8月、中国東北抗日聯軍第3軍4師政治部主任、
日満軍警のパルチザン制圧作戦を逃れてソ連に亡命した。1940年のハバロフスク会議頃に金日成と合流し、
教導旅団(第88特別旅団)第3大隊政治委員となる。
1945年、金日成らとともにソ連軍(赤軍)に同行して帰国。
1950年6月25日の朝鮮戦争勃発時には朝鮮人民軍前線司令官に任命。総参謀長第一軍団長、第二軍団長らを指揮する立場にあった。
顕彰
北朝鮮の公的な歴史によれば、金日成のもっとも忠実な同志の一人である。死後「共和国英雄」とされた彼の功績をたたえられた。
日本統治下の朝鮮半島北部に生まれ「間島(カントウ;現在の中国吉林省朝鮮族自治区)」に移住後「抗日パルチザン」になるというのは、北朝鮮の「抗日英雄のお約束伝説」です。
元航空自衛隊空将の佐藤守氏が「金策は、陸軍中野学校(スパイ養成校)卒の「日本人工作員ではないか」と推測する根拠は
・金策が出席したソ連領内での会議の内容は全て、関東軍の特務機関に「筒抜け」になっていること。
・金策の部下の「指導管理技術」にちゃんとした「軍人教育」を受けとりわけ「統率術」を身に着けていた様子が明確に感じられる。
《金日成(金聖柱)の自伝回顧録「世紀とともに」は「金策べた褒め」のオンパレード》
「成りすまし金日成」こと金聖柱らの「東北抗日連軍」の隊員らは、正規の兵士とは程遠い「強盗、夜盗を生業とするならず者集団」でした。
従って、軍隊として敵と戦う「軍事知識」も「軍事技術」も皆無でした。
金聖柱の回顧録「世紀とともに」には、金策が、部下に対して、軍人としての行動の仕方、振舞い方、戦況に応じての判断の仕方を手取り足取り教える「知識と能力」を記憶をもとに具体的に再現し、絶賛しています。
年齢は、金策が金聖柱の8歳上ですが、生前の二人の関係を知る党幹部の記憶によると「まるで「師」に接するかのような金聖柱の恭しさ」だったそうです。
ソ連領ハバロフスクの東北抗日連軍の野営は、男女別に別々のテントで生活していたそうですが、男女関係は「雑婚状態」だったのでしょう。
《金正日が「托卵児」であるロシア側の証言》
ロシアの「トルネード7紙」の1998年6月26日の報道
「金正日の本当の父親は金日成とともに抗日戦を戦ったキム・チェクなる人物で、金日成が金正日を養子にした理由については語らなかった。」
証言者は中央アジアのカザフスタンのアルマトイ在住のピョートル・パク氏で年齢は80歳前後、当局の指示で、1940年代に金日成にマルクス・レーニン主義の教師を務めた。
ピョートル・パク氏は朝鮮名を朴一という、カザフスタン在住の「高麗人」で、フィギュアスケートでカザフスタン代表だった故デニス・テンと同なのです。
パク氏によると、金日成はウォッカが好きで、中国育ちの為、朝鮮語はあまりうまくなかった。
本名は「金聖柱」だと断言しています。
金正日が金日成の「養子」だとしても「生母」は金正淑なのでどう考えても「托卵児」になる。
妻金正淑の「過ち」だったのか、金聖柱合意の上での「托卵」だったのかはわかりません。
但し、ロシア「トルネード7」紙が報道した1998年は、1994年に金日成が急死し、金正日が「政権基盤」を固めた時期なので、「北朝鮮の最高指導者の出生の秘密の暴露」について、北朝鮮政府が「否定と正式な抗議」をしなかったのは引っかかるところです。
《金正日の正しい「生誕地」と「弟殺し」の疑惑》
北朝鮮の公式発表では、金正日は1945年8月の「大東亜戦争終了」まで、偉大なる金日成将軍が白頭山に立て籠もり、攻め寄せる大日本帝国軍と勇敢に戦い抜いていた「白頭山の密営」で生まれたことになっていますが、これも「大嘘」です。
金正日はハバロフスク近郊のソ連の病院で生まれたのです。
これは、在日朝鮮人作家の金賛汀(きんさんてい)氏が、金正淑と同じテントで野営していたという女性隊員の金善に確認しています。
《「不審死」した弟とともに「ロシア名」が命名されていた》
金正日のロシア名は「ユーラ」、死亡した弟の金万一のロシア名は「シューラ」でした。
1947年7月、これは、金聖柱らが金日成として、北朝鮮に帰国後の話ですが、金正日の弟のシューラが自宅の池に転落して死亡しています。
金正日6歳、弟シューラ3歳の時でした。
普段から兄弟仲が悪く、その原因は金聖柱が弟のシューラばかり可愛がり、金正日には冷たかったことが原因だとも言われています。
弟の死因は発表されず、葬式も臨家のソ連軍政治将校一家にも知らされずに秘密裏に済まされたそうです。
《「成りすまし金日成」こと金聖柱、北朝鮮に凱旋するまで》
1945年8月15日、日本政府が「ポツダム宣言」を受諾して大東亜戦争は終了しました。
《朝鮮半島の「南北分断」は日本の責任ではない(怒)》
玉音放送を聴いた後、当時の朝鮮総督府の政務総監の遠藤柳作は日本統治終了後の朝鮮半島の混乱を憂慮していました。
それで、民衆保護の為に、遠藤は政治活動家の呂運亨(後に同じ朝鮮人から暗殺される)に「臨時政府」の樹立を要請し、
呂は8月15日に「朝鮮建国準備委員会」を設置、朝鮮総督府から行政権を事実上移管され、9月6日に朝鮮人民共和国の建国を宣言しました。
遠藤が交渉相手に呂を指名したのは「呂の言動が左右極端に偏らず「中道志向」の穏健な人物」だったからと言われています。
しかし「朝鮮人民共和国」は4日の短命で終わりました。
理由は、日本が「ポツダム宣言」を受諾する意向であることを知ったアメリカ大統領のトルーマンは、前日の8月14日に北緯38度線で朝鮮を分割し、南北を米ソで分割統治する「一般命令第一号」をソ連のスターリンに通告し、
ソ連も同意していたからです。
9月14日、朝鮮半島の北部、日本海側の元山(ウォンサン)に上陸したソ連軍は呂の臨時政府を認めずに、北緯38度線以北を実効占領しました。
しかし、ソ連が悩んだのは、親ソの北朝鮮政府の傀儡(かいらい)を誰に据えるかです。
南朝鮮は、日本統治の間、40年弱、アメリカに亡命していた「李王家」の遠縁の両班の李承晩を立てようとしていました。
そこでソ連は「抗日パルチザンの伝説の英雄」の「金日成将軍」に「成りすますことができる人物」を探しました。
都合のいいことに、手許のハバロフスク第88特別旅団の工作員に金聖柱がいました。
そして、ソ連領内で死亡した【金日成第4号の金一星】とほぼ同年齢でした。
更に「普天堡の戦い(ふてんほのたたかい)」で有名をはせた【金日成第2号の金成柱】と
「成」→「聖」の一時違いで、発音は同じ「ソン」でした。
この辺の微妙なニュアンスはソ連軍の幹部はよくわからないので、金聖柱の「第一同志」の金策が、
プランを考えて、スターリンにまで根回しして決めたそうです。
なるほど、これでは「成りすまし金日成」こと金聖柱は、一生涯、金策に頭が上がらなかったはずです。
《「成りすまし金日成」こと金聖柱の北朝鮮デビューの日》
ソ連軍の艦船で、9月に日本海側の元山に上陸した金聖柱は、「幻の抗日英雄金日成将軍」に完全に成りすますべく、リハーサルに日数をかけて、満を持して、1945年10月14日、平壌公設運動場(現金日成スタジアム)に姿を現しました。
演壇に登場した「金日成」を見て8万人の観衆は声を上げてどよめきました。
しかし、その「どよめき」は待ちに待った「民族のメシア」をこの目で見た感激の「どよめき」では有りませんでした。
ネガティブな衝撃を受けた「驚きの衝撃」でした。
何故なら、白馬に跨ってシベリアを疾駆した「金日成将軍」、「普天堡の戦い(ふてんほのたたかい)」で、日本軍に「大勝利」した「金日成将軍」は、満州国の警官隊との銃撃戦で銃殺されたことになっており、当時36歳と報道されていましたから「不死身の将軍」で生きていても、現在なら、白髪の50代の人物のはずでした。
それが、観衆の目の前に現れたのは、まるで「フライ級のボクサー」か「中華料理屋のウェイター」の様な30代前半の若造でした。
落ち着きを取り戻した観衆が口々に喚き始めました。
朝鮮語で「カッチャ、カッチャ」。
日本語に訳すと「なんだ偽物じゃないか(怒)ニセモノ、ニセモノ(怒)」と騒然となったそうです。
この時、「成りすまし金日成」の正体に気付いた人物がいました。
それは「成りすまし金日成」の肉親で実弟の金英柱(キム・ヨンジュ)でした。
実弟の金英柱は、8年前の1937年、16歳の時に、兄聖柱とともに、満州に潜んでいるところを運悪く日本軍に見つかって逮捕されてしまいました。
金英柱は、別段、「抗日独立戦争」をやっていたわけではなく単なる「盗賊団」でしたから、反省し、満州警察の求めに応じて、母の康盤石(カンバンソク)とともに、兄聖柱に「投降」を呼びかけたりしていました。
しかし、兄の消息が分からなくなり、自分も満州国の首都の新京(現、長春市)の日本人商店で働いていたところを、日本軍に招集され、終戦まで中国軍と戦っていました。
終戦後、中国に残っていたら、国民党軍に殺されるので秘かに朝鮮に戻って身を隠していたところ、さして、優秀でもなく、軍人として手柄を立てたわけでもない兄が、「幻の金日成将軍」として現れたので度肝を抜かれたのです。
要するに、満州にいたころは「匪賊」に過ぎなかった金聖柱は、ソ連領に逃げ込んだ後は、ソ連領内から一歩も外へ出ずに、ソ連からは「工作員」としての要請を受けていました。
そして、その目的は「抗日独立戦争」ではなく、あくまでも、毛沢東に協力して「中国の共産革命」を成功させることでした。
従って、日本軍はおろか、満州国軍とも戦ったこともなく、日本軍や大日本帝国に対する恨みすらありませんでした。
ですから、1990年の「金丸訪朝」の時も、満面の笑みをたたえて、友好ムードで出迎え会談したのです。
目の前の金日成の「正体」を知らない、金丸信は、「金日成」から、「日本が戦後見事に復興で来たのは天皇陛下の影ですね」とおだてられて、何と「度量の大きい大人物だろう」ところりと騙されたのです。
朝鮮人の民衆に「偽物」だと見抜かれた金聖柱は、さすがに、ソ連艦船で元山に着いた時は、ソ連軍の「赤旗勲章」を胸につけていましたが、
さすがに平壌に着くころには勲章を外していました(笑)