書籍化されました
小泉純也と日本統治下の朝鮮半島
1904年(明治37年)1月、日露戦争の開戦の一か月前、鹿児島県加世田村万世(ばんせい→マンセーに通じる)の朝鮮人部落に一人の男児が生まれた。
仮に名前を朴某としておこう。
当時の加世田地区は非常に貧しい家庭が多く、その中でも特に万世の朝鮮人部落はとりわけ貧窮世帯が多かった。
男児の実父は地元の鰹節工場で働いていたが、彼が11歳の時に亡くなっていた。
その後、残された母親は女手一つで6人の子供を育てることになった。
男は、小学校を卒業すると鹿児島市内の呉服屋の山形屋(現山形屋百貨店)に就職し、鹿児島実業の夜間部に通った。
地味ながらコツコツと真面目に働く、男を気に入った、山形屋の社長「M」は、自ら「創始改名」の親代わりとなって、「鮫島純也」という通名を与えた。
ちなみに、「鮫島姓」は薩摩藩では士分では名門に当たる。
《1911年、朝鮮銀行の設立と鮫島純也の渡鮮》
日韓併合(1910年)の翌年1911年に、日本政府は朝鮮の京城(ソウル)に朝鮮半島の「中央銀行」として朝鮮銀行を設立しました。
「外地」とはいえ、中央銀行ですから「発券銀行」です。
本土の中央銀行である日本銀行から、「一定の独立性」を持ちながら、朝鮮銀行券を発行していました。
勿論、朝鮮銀行券は、「円」と連動し日本銀行券、金と兌換可能な法定紙幣でした。