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話しを朝鮮銀行に戻しますと、日清、日露両戦争に勝ち抜き、幕末の不平等条約を全て解消し「列強」の仲間入りを果たした日本は、通貨「円」が当時の国際経済の「基軸通貨」となりました。
「交換レートの歴史の話」
ちょっと、日本円と米ドルの「交換レートの歴史の話」をします。
戦前の交換レートは、1円=1米ドルでした。
1945年の「終戦」から1971年までの「交換レート」は固定で、1米ドル=360円でした。
「ニクソン・ショック=米ドルと純金の兌換停止宣言」以降、「フロート(変動為替相場制)」となり、本日1米ドル=107円ですから戦前は、今より107倍「円」が強かったのです。列強の一員として「堂々たる基軸通貨」でした。
終戦後、アメリカ民主党政府は、日本を「四等国」に下げようとして、あんな屈辱的な固定レートにしたのですが、「異常な円安」で固定したために、戦後復興期に繊維製品やSONYのラジオなど、高品質の日本製品が、アメリカの競合企業を倒産に追い込み
市場を席巻して、アメリカにとって「対日貿易赤字」を抑えられなくなりました。
イギリスやフランスの「手持ちの米ドルを金と交換してくれ」という要求にこたえられなくなったのです。
その為、ニクソン大統領は世界の基軸通貨として「米ドルの金兌換義務」を放棄しました。
しかし、「覇権国の基軸通貨」の米ドルの「信用」を担保するものが無くなりました。
それで、ニクソン大統領は、ヘンリー・キッシンジャー国務長官を急遽、最大の産油国のサウジアラビアに行かせて今後は「原油の輸出代金の決済」は全て米ドルで行うように要請したのです。
交換条件は、米軍がサウジアラビアの安全保障を約束することでした。
その為、それ以降の米ドルの信用を担保するものは「原油」となったので、その基軸通貨制度を「オイル・ダラーペッグ制」とも言います。
アメリカのブッシュ・ジュニア大統領が「大量破壊兵器を持っている疑いがある」と言いがかりをつけて「イラク戦争」を起こしてサダム・フセインを殺したのは、イラクが自国産の原油の輸出代金の決済を米ドルからユーロに変更したからです。
話しを再度朝鮮銀行に戻します。
また「外地」に朝鮮半島という、中国、ロシアと国境を接する国土が出来たことで、その後に予想される国境紛争や、戦争の際に「機動的に戦費」を調達するために、「外地」に中央銀行が必要となったのです。
日露戦争の勝利の結果、当時の「満州の南半分」、「長春以南の満州鉄道沿線と附属する炭鉱」及び「中国関東州(旅順・大連)の租借権」も日本の権益となりました。
このように、本国以外の外地直轄地の中心都市に、中央銀行を設置することは、大英帝国の「香港上海銀行」が好例でした。
香港上海銀行
イギリスの金融グループHSBCホールディングス傘下の銀行である。香港に本店を置き、香港ドル発券銀行の一つである。
香港で海底ケーブルによる電信の便益を最大限に享受する一方、1881年にリヨン支店を、1889年にハンブルク支店を開いている。
香港植民地の法律が設立根拠となっており、チャータード銀行のような勅許状による銀行ではなかったので、
喜望峰の東といった営業圏の制限は受けていない。既に20世紀初頭、アメリカでの貸出高が同行全体の3割を占め、比重は年を追うごとに漸増した。
《基軸通貨になれば如何に国家財政が赤字になっても紙幣を無限に印刷することができる》
このことは、最新の経済学の理論で「証明」されていることであり、「世界経済史」が実例でもって示していることです。
大英帝国は、香港上海銀行にスターリングポンドを刷らせることにより、中国大陸の鉄道建設の大型プロジェクトに投資を行い、利権を獲得してきました。
フランス、ドイツ、ロシアもアジアに植民地銀行を持っていました。
朝鮮銀行は上海など中国大陸各地に支店網を広げ、これらの支店を通じて各種の大陸利権を獲得し、軍事作戦用の資金も調達していました。
大日本帝国の「南方進出」には台湾銀行の支店網が貢献しました。
台湾銀行
「台湾銀行法」によって1899年(明治32年)に設置された、台湾の貨幣(台幣)の発行権を持つ特殊銀行であるとともに、
日本統治時代の台湾における最大の商業銀行である。資本金は最終的には6,000万円に達した。
本店は台北市におかれ、支店数31、出張所1を有した。
業務(中央銀行として)
台湾における中央銀行として、南中国、南洋の貿易金融のほかに対欧米為替業務にも進出した。
銀行券の発行はいつでも金貨と引換るべき券面金額1円以上の銀行券を発行し得た。
※「円」が基軸通貨であったからこそ「世界大戦」を戦い抜けた へ続きます。